日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

ウォルター・バジョット

wikipediaより

ウォルター・バジョット(Walter Bagehot, 1826年2月3日 - 1877年3月24日)は、イギリスのジャーナリスト・評論家・経済学者・思想家。

人物
1826年にサマセット州のラングポートで銀行家の一人息子として誕生。25歳の時、パリへの旅行中、ルイ・ナポレオンのクーデターを目撃した。この体験が契機となり、エドマンド・バーク保守主義の政治思想に傾倒した。評論家としては、政治・経済・社会・文芸・歴史・人物と幅広い分野を対象とした。また、『イギリス憲政論』は、君主制擁護論として、バークの『フランス革命省察』に次ぐ、政治学の古典となっている。35歳から51歳で死去するまでの期間、『エコノミスト』紙の編集長を務めた。


著書
Estimates of Some Englishmen and Scotchmen, (1858年).
The English Constitution, (1867年).
Physics and Politics, (1872年).
Lombard Street: A description of the money market, (1873年).
Literary Studies, (1879年).
Economic Studies, (1880年).
Biographical Studies, (1881年).
The Postulates of English Political Economy, (1885年).
The Works of Walter Bagehot, (1889年).


邦訳著書
『ロンバード街―ロンドンの金融市場』岩波文庫 (1941年)
『ロンバード街―金融市場の解説』日経BPラシックス、久保恵美子訳、(2011年)
『イギリス憲政論』中央公論新社 世界の名著 60 バジョット/ラスキ/マッキーヴァー (1970年)


関連人物
エドマンド・バーク
ヘンリー・メイン
ジョン・スチュアート・ミル

 

【コメント】

ウォルター・バジョットに言及している著作に、私自身最近までほとんど触れたことがありませんでした。「保守」言論においてちらほら目にする程度で、私自身は『イギリス憲政論』という日本人にとっては少し難解な著作を書いた評論家、イギリスの国民性に関して「愚鈍」であると表現したらしいことくらいの印象しか残っていません。

 

最近になって再びその名前を聞くことになりました。

 

前日にも触れた『21世紀の貨幣論』という著作の中で、彼の著作のうち、『イギリス憲政論』ではなく『ロンバード街』という著作に焦点が当てられていました。

 

この点について今後、もう少し掘り下げていきたいと思います。

 

W-67 イギリス憲政論 (中公クラシックス)

W-67 イギリス憲政論 (中公クラシックス)

 

 

 

世界の名著 (72)バジョット・ラスキ・マッキーヴァー

世界の名著 (72)バジョット・ラスキ・マッキーヴァー

 

 

 

ロンバード街 金融市場の解説 (日経BPクラシックス)

ロンバード街 金融市場の解説 (日経BPクラシックス)

 

 

 

ロンバード街―ロンドンの金融市場 (岩波文庫)

ロンバード街―ロンドンの金融市場 (岩波文庫)

 

 

試しに、英語版wikipediaを誤訳覚悟で翻訳してみました。読み比べて見て間違っていましたら訂正してください。

 

ウォルター・バジョットはイギリスのジャーナリスト・実業家で、政治・経済・文学などについて幅広く論じた随筆家である。

生涯
バジョットは1826年2月3日、イングランドのサマセット州ラングポートで生まれた。彼の父、トーマス・ワトソン・バジョットはスタッキーの銀行で、取締役兼副社長を営んでいた。彼はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに通い、そこで数学を学び、1848年、道徳哲学の修士学位を得た。バジョットはリンカーン法曹院より、法廷弁護士の資格を得るが、1852年に一族の船舶業と銀行業を営む父親の元で働くことを選んだ。

ジャーナリズム
1855年、バジョットは友人のリチャード・ホルト・ハットンとともに『ナショナル・レヴュー』を立ち上げた。1860年、彼は叔父のジェイムズ・ウィルソンによって設立された『エコノミスト』の編集主任となった。17年間、彼は編集者として携わり、『エコノミスト』の政治面を報じ、政策担当者の間でその影響力が大きくなった。

著作
1867年、バジョットはイギリス憲法、特に議会と君主政治の本質を探究した著作、『イギリス憲政論』を執筆した。それは議会によって「1867年の改革法」が制定されたのと時を同じくしており、第2版の追加された序論を書くことが求められ、1872年に現れた。

バジョットはまた1872年に文明がそれ自身を維持するあり方を考察した『自然科学と政治学』を執筆し、体制順応主義(コンフォミズム)と軍事的成功によって維持される限りにおいて、その初期段階の文明が近代自由主義の価値観に対立することは非常に多いが、より大きな多様性と自由を認めるシステムの中においてそれを成熟へと向かわせることができ、それによって文明は維持されると主張した。

1873年の『ロンバード街』においてバジョットは金融と銀行の世界を表現することを試みた。彼の金融における報告はよく中央銀行に関して、近年では2007年に始まるグローバル金融危機の到来において、引き合いに出されている。特に重要なのが金融危機において中央銀行は、よい見返りと興味をそそる相場が純粋に困窮しているわけではない借り手を十分に思いとどまらせるのに対してだけ支払い能力のある預貯金取扱金融機関に自由に貸すべきであるというバジョットの格言である。

遺産
バジョットは1867年に患った肺炎の発作から完治することなく、1877年に風邪をこじらせて亡くなった。バジョットの文学、政治、経済の随筆の全集は彼の死後に出版された。彼の著作はシェイクスピアとディズレイリから銀の価格までに至る。彼の寄稿作品の所有者、『エコノミスト』のイギリスの時事問題における論評は「バジョット」と表題されている。毎年、イギリスの政治学会は、政府および行政の分野における最も優れた学位論文にウォルター・バジョット賞を受賞している。

 

日本語版のwikipediaがバーク主義の傾向にあるのは、中川八洋の影響であろうと思います。