日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

定義

エリオット・ソーバー『進化論の射程』より

原題:Philosophy of Biology, Second Edition

 

哲学者はしばしば、諸概念(例えば、知識や正義、自由)に定義を与えようとする。ところが、定義についての一つの見方によると、この営みは馬鹿げているということが示唆される。このことは、定義が約定(stipulation)であるという考えに関連する。言葉にどのような意味を割り当てるのかは恣意的に決められる。したがって、好きなように「進化」を定義することができる。この見方によると、誤った定義というものは一切存在しない。ルイス・キャロルのハンプティー・ダンプティーが述べているように、私たちが言葉の支配者なのであり、その逆ではないのである。

 

約定による定義が唯一の定義であるなら、定義が「本当に」正しいかについて論じることは馬鹿げているだろう。しかし、この他に考慮すべき定義が二種類ある。

 

記述的な(descriptive)定義では、ある言語共同体の中で、ある用語が使用される仕方を記録することが求められる。記述的な定義は誤ることがある。この種の定義には通常、哲学者よりも辞書編集者が関心をいだく。

解明的な(explicative)定義では、ある概念の使われ方を把握するだけでなく、その概念をより明確で正確にすることが求められる。ある概念が曖昧な、あるいは矛盾する仕方で用いられているのなら、解明的な定義は日常的な用法から外れたものとなるだろう。このタイプの定義は、ある意味で約定と記述の間に位置するものであり、哲学者が定式化を試みようとするのは多くの場合これである。

 

【コメント】

定義とはどういったことを指し示すかという問いは、表現の仕方、捉え方としては「定義の定義」と呼べるような構造を持っているのではないでしょうか。

 

「自己言及のパラドックス」ではないけれど、「定義の定義」という表現が持っている「自己言及」という性格に「論理構造上の一つの性質」を持っているのではないかと思います。

 

学問であれ、仕事であれ、言葉を含んだヒトの認識の機制に関わるものであるならば、概ね全ての表現や活動に関連してこの種の性質を持つ問題と出くわすのではないかと思います。

 

定義の問題において議論される場面に出くわした時、私は「言語」とは何かということ、そして私たちの「感覚器官」とは何かということについての考察を避けることは難しいと考えます。「定義の定義」に関連する議論において、特に「感覚器官」に関する議論の不備が見られるケースが、私には多いように感じます。