日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

判断および決断について

1年以上前に書いたものを再掲載したいと思います。たぶん今は少し考え方が変わっているだろうと思います。書いているときの気分が今と幾らか違う程度の違いしかないのかもしれません。掲載したサイトの前後関係が抜けていますが、そこはあまり気にしないでください。

 

 関連性のあると思われる著作を後で買ってみましたが、それなりに難解で理解できないところもありますが、その点を今後盛り込んでいきたいとも思っています。

 

不確実性下の意思決定理論

不確実性下の意思決定理論

 

 

 

合理的選択

合理的選択

 

 ギルボアの意思決定論は心理学的傾向よりも数学的傾向の方が恐らく強いのではないかと思います。他にはカーネマンとトヴェルスキーの行動心理学あたりも絡めると面白いのではないかと考えます。

 

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 私が行いうる限りの多角的視点で俯瞰的に判断に関する考察を行えればと思います。その下支えとして、前に書いたものを再掲載したいというのがこの度の意図ということになります。

 

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2013年11月04日13:37

「判断」あるいは「決断」という概念について哲学的に考察することは、他の概念についても言えることだと思うが、非常に厄介なものであると私は思う。

 

私が様々な「記号」論的な考察を行う目的の一つは、様々な「名辞」あるいは「概念」に対して、その「記号」論的考察に基づいて考察を行うことを前提としたいがためである。

 

私たちが物事を論じるとき、恐らく何らかの規則性を土台として物事を論じるわけであるが、その土台となる規則や論理、方法は個人の理解するところが土台となっている訳であり、規則や論理、方法は決して向こうから必然的に私たちの論理に付随してくるものではなく、私たちが生の中から見出して初めて使用されるのであるだろう。

 

従って私たちは、自らの論理の妥当性を示すことを目的としている場合、その自らが理解する、自らが土台とする規則性なり、論理なり、方法論なりをどこかで提示しなければならないはずである。

 

この点に関して言えば、その方法は不十分であったにせよ、あるいは必然的に不十分なものであるにせよ、所謂哲学者の中には、その彼の主題とは別に、自らの理解する規則なり、論理なり、方法なりを、彼らができる限りにおいて最低限提示することを試みていた人たちがかなりの程度いたと私は率直に認めたいと思う。

 

哲学的な考察に対して不十分な態度で望んだ場合は、当然の結果として、彼らはその彼らの主張なり、論理なり、正当性なりを提示するにあたり、その土台となるものに対する提示は、その考察の欠如故に不十分なもので終わるだろう。

 

昨今の我が国における様々な主張や、論理、あるいは正義についても同様のことが言えるのではないかと思う。

私たちがその主張、論理、正義を擁護するに当たってその基礎となっているものは、直観であり、気分であり、自尊心であるのではないかという率直な感想を、私は隠し続けることができない。

 

私たちが認識するところの正しさは、どこまで行っても直観的なものであり続け、その直観への信心こそが、私たちの自尊心の根源なのではないかと思う。

 

さて、「判断」および「決断」について考えよう。判断や決断について、私たちは用意されているのか、あるいは用意したのかという解釈論はともかくとして、その用意され、用意したであろう選択肢の存在を想定する必要があるだろう。

 

判断および決断とは、一つにその選択肢の中から何かを選び取ることであり、同時にその選択肢の中から何かを捨て去ることを意味すると思う。選び取るにせよ、捨て去るにせよ、それは記憶に留め続け、記憶を抹消するという意味ではなく、進行し続ける時間の中でのある状況においてその論理や方法を、用いるか用いないかという選択である。

 

私たちにとって今日という日は戻ってこない。ある意味では毎日が今日なのだが、そういう意味ではなく、時は刻々と刻み続け戻ることがない。今という瞬間は二度と戻ってこない。私たちはその中で状況判断をし、何らかの選択肢の中から何かを選び取る。

 

現実において、選択したことによって実践することは、その選択肢の精密な写像には当然にならないだろう。この点についての考察は、認識における言語化および可視化についての考察する場に譲るが、私たちが論理的に構築した理論を現実に投影することには、ある意味で無理があると認めつつ、しかしながら、思考は絶えずそういった形態から抜け出せないが故に、論理的に構築した理論に絶対に頼らない訳にはいかない。

 

私たちの行動は絶えず判断が迫られているとも私は思っていない。状況によっては瞬時に行動しなければならない場面というのは、生きている限り常にある。そういった場合、選択肢を考察することもなく、反射的に動いている場合が多いと見ていいと思う。

 

反射的な行動は、一つに生理学的機制とでも言いたくなるような行動もあるし、また生理学的な機制でありながらも、個人の習慣的な、性格的なものを由来とする場合もあるだろうし、また場合によっては文化的なものを由来とする場合もあるだろう。

 

私たちの行動に対し、何らかの問題点が浮かび上がってきた場合、私たちは「何故」問題があるのか、あるいは「どのように」行動すべきかという選択肢の模索を試みる場合がある。

 

判断や決断とはそういった「思考」を前提としていると私は思う。少なくとも選択肢を模索するためには「状況」がどういったものであるのかをまず考えなければならない。私たちにとっての「状況」とは何かという問いもまた、私には単純に答えが出せるものでもないと思いつつも、ある程度概観くらいは浮かび上がらせる必要性はあるのではないかと思う。

 

2013年09月22日11:52


孤独の中での決断


記号の飛び交う世界――仮説だらけの世界

 

世の中は沢山の言語命題や映像表現などに溢れかえっている。それぞれの言葉やイメージが社会全体あるいは世界の全体性の中でどのような意味を持っているのか、率直に言って、私は様々な解釈こそしても、また様々な主張を耳にすることはあっても、理解していないに違いないだろう。

 

そしてそれを知っているという主張についても理解できないし、今後も理解できないだろうと思っていると言っておく。仮に理解できている、理解できると判断した場合、それは部分性の中において理解しているに過ぎず、何らかの枠組みや条件の中でのみ仮のもの、仮説として理解している、了解しているに過ぎない。

 

記号の飛び交う世界における自己

 

それとは別に、私はこの世界に生きている。私は確実にこの世界で生き、死ぬまで決断しないという決断も含めて、私自身の中の多くの仮説の中から判断している。それは他者によって要請されているのかもしれないし、自らの願望として要請しているのかもしれない。様々な情報は私の意志とは別にこの世界において飛び交っているが、私が私自身の意志として決断するに際しては、私の中の仮説群の中から、思考の中から、物事を決断するに至る。

 

それは時に決断しなければならないという他者からの要請に応えるものであるかもしれないが、それでも自らの義務感によって、他者の要請に反して決断することもあるだろう。また決断について言えば、意志の弱さについても考察しなければならない。周りに流される自己、自分の欲望、欲求に流される自己というのは当然ある。

 

貴方の判断とは

 

貴方の如何なる決断も最終的には貴方自身によって為されるのであり、貴方はそれを貴方自身によって見出さなければならない。

 

貴方自身の思考によってこの世界は不条理に感じるかもしれないし、残酷に感じるかもしれないが、それが当たり前のことであるのかどうかという判断一切を含めてその評価に至るまでが、最終的に貴方の判断である。誰が判断したわけでもなく貴方が判断したのである。

 

不条理な世界における貴方

 

私は貴方に対してこの世界は常に不条理であり続け、残酷なものであるということは解消されないのではないかと問うが、それを前にしての貴方の意見など、私の判断とはそれほど関係がないに違いない。貴方自身の生において、誰もその最終的な判断、決断を下してくれないという意味で、ある意味たった一人の、孤独な思考の中で貴方は貴方自身の中で格闘しなければならないだろう。

 

それは義務であるという意味ではなく、不可避的なものという意味でそう思う。貴方は貴方自身が生まれてきた時から繰り返し行ってきた決断、判断の影響によっても当然に、今の貴方の判断は影響を受けているに違いない。それは時に、断固とした決意だったかもしれないし、また、単に周りに流されてのものだったかもしれないし、自己の生物学的な意味での衝動によるものだったのかもしれない。

 

運命的な出会いあるいは繋がりの中で

 

孤独の中での決断というが、そういう意味では運命的な、宿命的な貴方自身の生において、貴方はその今に至るまでの生を否定するのか、肯定するのか私にはどうでもいいことであるが、その生における様々な運命的な出会いの中から、今後の貴方自身の生を生きるに当たる指針が貴方自身の解釈によって作り出されることだろう。

 

しかし貴方自身の本来的な意味での孤独は、本来的な意味での孤独を生きている貴方以外の人々、他者との出会いによって、群居本能とは別の意味での繋がりがあるというのもまた間違いないことかもしれない。

 

貴方に対する批判について

 

不条理の中で生きているという解釈は決して貴方のみの解釈ではなく、生ある人すべてがその時々の感じ方も、諸個人の程度の差もまちまちなのだろうが、解釈してきたことだろう。

 

貴方は今後の全ての判断を、貴方の生の中で見出さなければならないが、それは全ての人間に共通するものであろう。貴方の判断の全てが間違いなく直観的なものに頼らざるをえないのは間違いない。何の問題もない判断や決断など恐らくは存在しない。

 

それは決して貴方だけが引き受けなければならないものではない。その判断や決断は、他者によって痛烈に批判されたり、罵声を浴びせられることもあるだろうが、その批判も罵声も貴方の行っている格闘とは別の根源に由来するものである。

 

孤独における激励

 

孤独の中における格闘は不安が伴うものであろう。勇気が常に美徳の栄誉を預っているのは、自己と格闘する者への激励であろう。あらゆる美徳に懐疑の目を向けたF・ニーチェに至ってすらその激励を手放さなかったのは、ニーチェにとってその励ましが必要不可欠だったからだろう。

 

古今東西世界を見渡せば、その種々の状況の中で人々は絶えず格闘していた。その中から手探りで自己の指針を模索するというのはやはり必要だろう。作られた世界、与えられた世界からのみ答えを模索するという方法論には限界がある。良かれ悪しかれ現代とはそういった方法が一般化しすぎた所があると思われる。

 

判断材料はこの世界に広く散乱しているが、それを収集し、検討し、解釈し続ける作業は、貴方自身が自ら行わなければならないことであり、それを手助けしてくれる人は、貴方自身を除けばあまり頼りにならないと言ってもいい過ぎではないのではないか。いいや貴方自身すら確かに頼りない存在かもしれないが、それでも貴方自身の格闘こそが最も激励するに値するものなのではないかと私には思える。