日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

世界を描くということ、世界を描き始めるということ

2014年12月13日10:37

世界を描くためには、世界を描き始めなければならない。

認識を仮に世界と呼ぶならば、この言明には幾らか無理がある。

世界を描くことの目的は、全く独立した個人、ただ彼のみの認識における世界を別の第三者に手渡すことを目的としている。ここでの第三者には、彼自身も含む。

世界を描き出す時、真っ新な、何もない世界に突如文字を、記号を置くことから始めなければならない。

そこに置かれた文字も、記号も、それ自体として世界そのものではない。世界の一部分とさえ言えないかもしれない。

貴方が描き出した世界がまず出くわすのは、貴方の描き出した世界の外側と内側の世界に出くわすということである。基本的に貴方の描き出した世界は、貴方の描き出した世界の外側のものを頼りにしている。

貴方は貴方の描き出した世界の根拠を貴方の描き出した世界の外側に据えている。その世界の外側の世界はなお示されていない。貴方はないものを頼りにしているにも関わらず、貴方が描き出した世界が頼りになるものであると確信している、としたならばこの行為をどのように捉えるべきなのだろうか。

貴方がもし貴方の描き出した世界の内側だけで世界を完結させられるとしたのであれば、それはどういった意味があるのだろうか。

そもそもその可能性は十分に低いが、貴方の描き出した世界によって完結している世界は、貴方が描き出した世界の外側の世界とどのような関係にあるのか、実際ははっきりしていない。

世界を描くという作業は、必ず未完に終わる。そもそも完成という到達点すらないという前提の上での作業なのではないか。

描き出された世界は大きさを持っている。メッセージとしての大きさをである。

貴方は他者に対してそのメッセージを発するということは、正しい世界を相手に認識させるということにはなりえない。貴方が与えられるもの、それは何らかのスキーマである。

世界を描く時、様々なスキーマが無造作に置かれた状態と呼べるようなものを回避することはまず無理だろう。

貴方が使用しているスキーマは、そのメッセージとして使用される時、相手にとっては、貴方とは違った印象を与える。貴方が使用するスキーマは、相手にとって、貴方のとは違った世界に組み込まれるのである。

描かれた世界とは、認知システムの存在を前提としている。私たちは描かれた世界を実践において足掛かりとする。それがどのような形で有用であり、有害であるのかは判然としない所もあるが、その因果関係を絶えず描き出す。因果関係とは、あるものであるというよりも作り出したものと言った方がよいのだろうか。