日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

出会いについて

【コメント】

以下の文章は決して巧くまとめられているとは思っていません。私が「出会う」という概念について何か特別なもののように思えた時、何となく筆を走らせた程度の内容にしかなっていません。これを更に発展させて「出会う」という概念について考えようと思って書きました。

 

これから視野に入れているのは次のような点です。

 

①論理学は「出会う」という現象を巧く取り込むことができない。

 

 特に数学は「演繹法」を基礎としているため、まず初めに「用意されている」公理を出発点としなければなりません。「不意に出会う」という現象を考える「確率論」も「用意された可能性」を前提としています。

 論理学の基礎において「想定しえないもの」を前提として扱うのは難しいでしょう。「私」と「貴方」の出会いは、「論理学」は何ら説明できない。もしできるとするならば、「主観的な確率論」を前提として出発しなければならないだろう。

 

②ミクロな物質論であれ、マクロな物質論であれ、「出会い」を無視することはできない。

 

 「科学」はその法則性を吟味する上で有効であるかもしれないが、貴方が直面している「出会い」を正確に把握しえるものではない。

 

③「出会い」は科学を学習する上で、既に「用意されているもの」として存在している。

 

 用意されていないものを説明するのは科学の流儀に反するだろう。学習のための実験室は、「必要とするもの」のために「道具」が既に用意されている。

 こういった学習の慣習から私たちは「出会い」に関して、既に用意されているかのような錯覚を覚えがちなのではないか。実際問題として、「出会い」はどのような結果を生むのかも、どのようなものと出会うのかもはっきりしない場合がある。

 

④私たちは「自身」に「出会う」ことによって、他者の出会いを意識する。

 「生誕」という概念を哲学者が重視することは稀であると思われるが、E・M・シオランが『生誕の災厄』の中で主題においている。

 「生誕」こそが、ある意味で私たちが「出会う」ことを意識する最も根源的な現象の一つなのではないだろうか。誰もが自らの「生誕」を「認識する」という現象に収斂されると見做していいだろう。

 

こういったものを展望していますが、この時点では走り書きで終わっています。今後の書き進める上での指標として、掲載したいと思います。

 

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2014年05月06日22:30

 私は今ここで「出会い」についての考えを表現する立場にあります。そしてあなたはその表現を受け取る立場にあります。これも一つの「出会い」だと思います。

 

出会う時に感じる二面性

 

 ここでの私とあなたの「出会い」について、あなたは非常にありふれたものと感じるかもしれません。それとは逆に、この「出会い」が特別なものであると感じるかもしれません。

 

 ここでの私とあなたの「出会い」に限りませんが、わたしたちの多くの「出会い」の中で、わたしたちはそれを極々ありふれた出会いと感じたり、特別な奇跡的な出会いと感じたりすることがあるのではないかと思います。

 

 私とあなたのここでの関係性のように「人」と「人」の「出会い」があります。そればかりではなく、例えば、人とモノ、モノとモノ、人と出来事など、考え方によって様々なことが「出会い」という言葉で説明することができます。

 

出会いと表現の関係

 

 実際に人と人との関係に限らず、多くの出来事について「出会い」という言葉や「出会い」という言葉と似ている言葉で表現されています。

 

  / ぶつかる、すれ違う、再会、僥倖

 

認識論と出会い

 

 知覚されることによる「出会い」、知覚されていない「出会い」

 

出会うことに関する二面性との出会い

 

知っている人あるいは知らない人と「出会う」という現象は、非常に日常的であり、幾つかの例外的状況を除けば、誰であっても非常にありふれたものであるに違いない。子供の頃からの記憶を遡ってみても、知っている人あるいは知らない人と「出会う」ということは毎日のように経験したことであると言えるだろう。

 

この日常がもし一瞬に崩れるとしたならば、知っている人に出会わない、あるいは知らない人に出会わないという世界にもし直面したならば、それはある意味で私たちが「ヒト」である意味を何らかの意味で損っている状態にあるとすらいえるかもしれない。

 

「出会わない」という現象は、その頻度が低下した場合の想定を極限まで推し進め、全く誰にも「出会わない」ということになったとしたならば、私たちの感情や論理の構造も間違いなく大きく改変されざるをえなくなるだろうし、「私」という存在そのものは、「私」においての思考の上でもほとんどあらゆる意味で「無意味」なものとならざるをえないに違いない。

 

また同時にその身体的な存在を維持するということも難しくなるだろう。

 

このような極端な想定はともかくも、その頻度が極端に低下した場合を想定したとしても、「出会い」の持つ役割が小さくないということは想像するに難しくないのではないか。それはともかくとして、私たちにとって「出会い」は絶えずとは言わないまでもありふれたものであり、多くの場合が凡庸な現象と捉えられるのではないかと思う。ここでは例外についての考察は控えよう。

 

次に「出会い」が有り難いもの、奇跡的なものであるという感覚について説明するならば、「私」が「貴方」に「出会う」ということを何らかの確率論を持ってきた場合を想定するならば、ある程度明確になるのではないかと思う。ただし確率を持ち出す場合、そこには「想定」することが想定されているという意味では正しくないかもしれない。

 

言い換えるならば、「私」が「貴方」に「出会う」という事に関する確率は何らかの「想定」されたものから算出されるものであって、それ以上の意味はないという意味である。例えば、日本人として、とか、世界の人口から考えるとかそういった「想定」されたものの中から数字として奇跡的な数字を算出できるかもしれない。

 

しかしながら、これらの想定は想定の上での数字であり、奇跡的「出会い」の本来的な意味を表現できないのではないかと問われれば、確かに「出会い」の奇跡的な感覚を上手く表現できていないかもしれない。

 

ここでわざわざ「宇宙」なる概念を持ち出したとしても、より身近なものから生み出された想定と同じく嘘くさい感じがする。ここに時間軸という概念を持ち出したとしても嘘くささは消えないだろうが、しかしながら、そういった「想定」されたものの複合的な、ぼやけたイメージの中から、ぼんやりと「出会い」の奇跡的な感覚が呼び起こると言ってしまえば、その感覚の発露はそういった程度のところからくるのだとは思う。

 

ここでの「奇跡的な」「出会い」の印象は、何かしら物的な、無機質なものを越えていない。数学的なこの種の「出会い」の想定は、ある意味で想定されたAという物体がBという物体と衝突する場合の想定とさほど大きな違いはないだろう。

 

私が想定しているのは人と人との出会いの奇跡についてである。私はここで人と人との出会いの奇跡について論じたくないと思う論点がある。従ってその点については論じないが、少しだけ触れるならば、私が論じたいのは人と人との「出会い」において「言葉」や「概念」に関わることであり、私が論じたくないのはそれ以外の何かについてである。

 

論じないのは繰り返すが恥じらいを由来とするためである。しかしながら、なんらかの意味で人と人との「出会い」における「言葉」の関係と類比できる部分もあるという意味で言えば、全く無関係とも言いがたいのかもしれない。

 

さて「言葉」、「奇跡的出会い」について考えるとしよう。「私」が表現し、そしてまた、「貴方」がそれを読むという場面の想定から、この出会いが必然であるのか奇跡であるのかを考えるとするならば、一つの結論としてその「必然」か「奇跡」かはその時々の、人それぞれの感じ方によってまちまちであるくらいしか言えないのではないかと思うが、それを何故「必然」と感じるのか、あるいは「奇跡」と感じるのかについては考察するに値すると思う。

 

私が表現に辿りつくまでの過程と、貴方が私の表現に辿りつくまでの過程についての解釈から、感覚としての「必然性」は人によっては感じるかもしれない。これは一つの例だが、そういった細かな具体例を漠然と寄せ集めて、人と人との「出会い」について考えた場合、「奇跡的出会い」の中からも何らかの意味で「必然」的意味合いが感じられることもあるのではないかと私は思う。

 

ただしその時感じた「必然」的出会いの果てにあるものが、解釈者の想定どおりに行くとは断じていえないだろうという点についても加味する必要があると思う。そしてまた思い通りにいかないに違いないという想定の果てに何もすべきではないあるいは、する意味がないという想定も、その想定と同様にさほどの意味もないと付け加えてもよさそうである。

 

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2015年2月23日

 

出会いの思想
①仮想――「出会う」――様々な意味において、ヒトは「出会い」と「別れ」を繰り返す。私たちが意識下において「出会い」や「別れ」を認識したり想定するのは、その内のごく一部である。物理的な次元も含めれば、いつ出会い、いつ別れたのかすら認識、想定できない出会いに溢れている。

 

②ヒトは「出会い」や「別れ」に関して、それを認識したり、あるいは想定したりする。私たちが行っている様々な「道徳的」な想定は、「出会い」と「別れ」を前提としている。――状況の想定

 

③「出会い」と「別れ」の一形態として、自分自身との「出会い」と「別れ」――私はたった今、私と別れ、そして私と出会っている。―― 一種の言葉遊びに近いかもしれないが、一つの「モデル」として提示できる。――このような「モデル」を俯瞰することで、この言葉遊びに一撃を加えられる。

 

④生物的な妥当性――人間の権利――私たちにとっての妥当性は、恐らく私たちにとって都合の良いものばかりをいうわけではないだろう。「出会わない」という現象に関して

 

⑤私たちが「出会い」について想定する時、そこには「欲求」や「願望」を発露としている場合が多い。またそれとは別に、「恐れ」や「卑下」などを発露にしている場合も当然あるだろう。ある「出会い」について「当然である」はずのものとは、心理的な作用、自己防衛の支配下にあると言えるかもしれない。少なくともこの点に関して言えば、はっきりと暴露するべきではないか。

 

⑥「出会い」の予測には当然に「不可知性」が伴う。どのようなものと「出会う」のか解らないにも関わらず、「出会い」に伴う予測の「正当化」を測るのは一重に「自己防衛」である。

 

追記

 

⑦「所有する」という事――「出会い」と「別れ」の関係性における一つの特殊な形態

 

⑧「所有権」――所有の妥当性を単に「出会い」と「別れ」の関係性から見て取るならば、どのように見るべきだろうか。

 

 

認識論的出会い論 - 日常風景のなかで