日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

諸科学と神学


個人的信仰心と日本人の信仰心について

私はクリスチャンではない。またムスリムでもない。正確な意味でブディストでもないだろうし、シントイストとも言い難い。私は科学的合理主義者でもないし、政治的な支持政党もない。私にとって聖典も聖書も教義も存在しない。そして恐らく私は正確な意味での無神論者ですらないかもしれない。

もしかすると、私ばかりではなく、実際殆ど多くの日本人がこのような感覚に近いのではないかと思う。支持政党に関して言えば、確かに何らかの政党には投票するが、積極的にその政党を信頼していると必ずしもいえないようには思える。

国籍と信仰心

私は良くも悪くも日本国憲法に基づく日本国民である。私が法律を守るのは日本国民だからという説明では恐らく不十分であろう。

私は「国法を守らなければならない」とは強くは思っていない。そこまで法律に信頼を置いているわけではない。また、私は日本国の法律や条例などを深く理解していないし、実際に条文すら殆ど知らないと言って差支えない。私が知っているのは特に常識的かつ実際的な幾つかの法律からも見出される非常に限られた幾つかの要件だけである。その幾つかを具体的に言えば、交通ルールや、窃盗、殺人、恐喝などに関して禁止され罰則がある程度のもの、また幾つかの労働に関する法律の漠然とした印象などがそれである。

これに関して、私は従わなければいけないから従っているとは思ってはいない。私は恐らく「とりあえずそうしている」だけである。実際にその幾つかは「罰則」があるから、敢えて従っているわけでもなく、特にその法律を犯したくなるような、誘惑にかられることもないようなものが多い。私は「私の心身と私の環境とのゲーム」の中でそう選択しているだけのように思える部分もあるが、実際は個人的慣習において特に違反するような癖がないものが殆どであるという部分の方が強いかもしれない。


神学的ゲーム

私はしかしながらよく解らないルールばかりの、また意味の解らない常識だらけの世界に何故か身を置いている。私はそういった意味でプレイヤーである。意味も解らない、何故参加しているのかも解らない、そういったゲームのプレイヤーなのである。私はこのゲームのルールをよく解らない。しかし、私は既存の宗教について信心深さを全く持ち合わせていないにも関わらず私たちの多くの価値観に影響を及ぼしているキリスト教とも一線を画す、日本人の多くの価値観に影響を及ぼしている仏教や儒教とも一線を画す「神学的」な問いを全く持っていないわけでは恐らくない。

 

信仰心と学問

何故私があえてここで「神学」を持ち出すのかというのは、恐らく「経済学」や「政治学」また「心理学」や「科学」、「哲学」や「芸術」というものが持ち出す「理念」に懐疑的であるという点がある。

諸学問が無自覚的にその基礎にすえているものがまるで「嘘」や「偽り」や「誤り」であるように見えて仕方がないという点にある。私は既存の神学についてもこれと同様に同じものを見て取るし、恐らく自ら「神学」から見出した観点についても同様のものを見て取るに違いない。

しかし、私は決して世界を「嘘」であり、「偽り」であり、「誤り」であると断定できない。世界は夢であると言えないし、世界は夢ではないとも言えない。矛盾した表現を用いたところで実際は何も始まらないし、これは単なる言葉遊びに近いだろう。

 

どこまで俯瞰しようとも、またどこまで細に論じようとも恐らく論理の陥る「言葉遊び」に囚われ続けるに違いないが、少なくとも懐疑的な視点を手放すわけには行かないというのは、実際に人生の中で感じざるをえなかった直感的結論ではある。

 

恐らくこの感覚は言葉で表現しがたいものだが、「世界がある」ということに関して、神学はある意味で滑稽なままの存在であるのは間違いないのだろうが、神学的な「ナニカ」に関しては問い続けざるをえない。

 

創世記と地球科学

 

所謂『聖書』は以下の文章から始まる。

 

「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」

 

私は上記の出来事が実際にあったとは信じない。

 

①『聖書』また『古事記』などにみられる神話的な世界観に対して、実際にあったことと信じることができない。ただし、神話に見られる人類以前に想いを巡らせるという認識上の不可思議な収斂には見て取るべきものがある。

 

②地球科学に見られる宇宙創世に関する理論や地球史に関する理論は、『聖書』や『古事記』などと共通する点がある。それは一つに今となっては確かめられない人類史以前の世界を描写しようという試みであるという点である。

 

③地球科学が「仮説」であり続けるのに対して、神話的な古典が「断定」的な表現を取るのはある意味でやむを得ないことである。それは「否定」や「仮定」に対する考察が未成熟な時代に作られたものだからである。この強い断定的傾向に問題があるのは明らかであるが、これに対して、神話的な古典の制作当時の仮説の扱い方を現代人が鑑みればよい話である。

 

④現代は神話を手放すと同時に、創世記にみられるような「人類史以前」に想いを巡らせることが少なくなっている。現代における権威の象徴となっている「政治学」および「経済学」は「科学」に接近すると同時に「科学」から遠ざかっている。言い換えるならば、「神話」から離れると同時に「神話」に近づいている。こういった傾向性は否定しがたい。私が「神学」に言及する理由の一つがこれである。