日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

正しいこと、間違っていること

私たちは常日頃、様々な判断や判別を行うに際して、「正しい」という用語とそれ
と対比する「間違い」という用語を用いています。

様々な場面で使用されていますが、ここでは幾つかその具体的な例を見ていきまし
ょう。

①国際社会においてある地域は内戦や戦争が今にも起こりそうな状況である。

 ⑴ 私たちはこの状況を打開するべく軍隊を派遣することは「正しい」だろう。
 ⑵ 如何なる状況であれ、戦争に加担するのは「間違い」である。

②ある経済学者は、今の経済状況について論じている。

 ⑴ 経済学者が指摘する通りの政策を行うことは「正しい」。
 ⑵ 経済学者の指摘は概ね「間違い」である。

③「2+2=」の答えは何か?

 ⑴ 4が「正しい」答えである。
 ⑵ 3は明らかに「間違い」である。

上記の例のような文章は非常によく目にします。「正しい」および「間違い」とい
う用語は、学問上のジャンルを問わずに、またアカデミックと日常の違いを問わず
に、頻繁に使用されています。

上記の例のように「国際政治学」、「経済学」、「算数」や「数学」においても使
用されまし、「社会科学」全般において使用されていますし、また「自然科学」全
般においても使用されています。また「論理学」や「言語学」を論じる上でも非常
によく使用されています。

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2013年
09月25日


私たちが常日頃使用している言葉に、「正しい」、そしてまたそれと対立する「間
違い」という言葉がある。これらの言葉にはそれぞれに類似する言葉や相反する言
葉が存在しているが、その類似的な言葉を掻き集めると、本当に類似していると見
做すには怪しい言葉も見出せてくるに違いない。例えば、「正しい」という言葉に
類似する言葉として「善い」とか、それと対立する言葉に「悪い」などがあるが、
「間違い」であることと「悪い」という言葉の意味は使用上随分違う使われ方をし
ているし、印象も異なっている。「正しい行い」と「善い行い」との類似性以上に
、「間違った行い」と「悪い行い」から受ける印象は幾分違ったもののようにも思
える。

この「正しい」とか「間違い」とか「善い」とか「悪い」という言葉は、日常的に
も使用されているが、更に学問として「政治学」や「法学」、「社会学」、「経済
学」、といった社会科学に使用されているし、また「哲学」や「論理」、「自然科
学」にも用いられている。この言葉の意味を精密に定義しようと試みたとして、そ
の「定義」は恐らくその言葉の使用における意味合いを必ずしも表現しきることは
出来ないのではないかと思う。

私はこれらの言葉が日常的に使われる事に対して異議を唱えるつもりなどないし、
また学問上において使うべきでないともいうつもりもない。言語使用における不備
や混乱、不完全さというのは、いかなる言葉を使おうとも発生するものであると思
う以上は、それらの言葉の使用を禁じたり、非難したりすることを、もし仮に私が
望むとしたならば、私は同時に全ての言葉の使用を禁じたり、非難しなければなら
ないという立場に立たざるをえなくなるように思える。

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「正しい」とか「間違い」という言葉は、物質的な対象を示す言葉でもなく、また
個別な何かを示す言葉でもなく、抽象的な言葉である。実際に何を指し示している
のかはその状況において異なり、「正しい」か「間違い」という判断は「状況」の
存在を前提としている。様々な日常的な判断においても、学問的な判断においても
、「正しい」か「間違い」であると思うためには、常に現実問題としての状況なり
、仮想的な状況の想定におけるところの状況が必要なはずである。

例えば、算数の問題があるとして、良く哲学者が使う簡単な問題に「2+2=」という
例題があるが、私たちはこの問題を想定されてはじめてその答えが「正しい」か「
間違い」かを判断できる。私が一先ずこの問題に解答するならば「4」なのだが、こ
れを持って「正しい」と判断するのである。そして概ね私の「正しい」という判断
には賛同を得られるだろう。もしかするとそうではないとか、そうとも限らないと
いう言葉が返ってくる可能性はある。私はその批判を「正しい」と判断するが、私
はこの時、「4」と答えた時の「正しい」という判断と、それに対する批判に対して
「正しい」と答えた判断には、幾分異なることを想定している。これはある意味で
異なった「状況」に置かれていると言えるかもしれない。ちなみに後者の場合の一
つの例を挙げるならば、それがもし普段使われている十進法でない場合には正しく
ないケースも想定できる。

このように「正しさ」というのは主観的状況によって変化しうる。主観的な「正し
さ」は主観的な状況によって異なるといえるだろう。そこで私たちがその「正しさ
」を論じるためには、恐らくその主観的な状況を提示しなければならない。そして
私たちの「正しい」という判断は主観的な状況によって成立しているに過ぎないと
いう意味で、その「正しさ」には常に限定的制約がついている。そしてもしかする
と私たちは同時に、この主観的状況の限定的制約を見つけ出すためには、その状況
がどのような形で制約されているのかを発見する必要がある。そのためには主観的
なその状況を外側から眺めなければならない。そしてその展望が何物であるかとい
えば、そこにはまた新しい主観的な状況が生まれただけである。


以前の日記において「「正しさ」というのは彼らの思考の前提と較べてそれに一致
しているかどうか程度の判定能力しかない。そしてまたいくらでも時間、場所、状
況と共にその前提は改変される。その正しさは未来の一体何と繋がっているのだろ
うか。そんなものにはお構いなく使われる言葉が「正しい」という言葉なのだろう
。」と述べたが、私たちが実際、様々な状況を思い描くが、私たちにとっての所謂
「現実」というのは捉えどころがない。私たちは「現実」が捉えどころのないもの
であるということを忘れて、「現実」を把握していると思い込んで物事を判断する
。これについては如何に注意深く「現実」を捉え切れていないと思っていても、私
たちが使用する言語、私たちの認識は、その自らの警告に反して、たちどころに「
正しさ」に捉われてしまう。

「正しい」という判断は論理の枠だけでは留まることはない。必ず何らかの心理的
な作用を私たちに与えることだろう。それは自らの存在意義や自らの存在価値に関
する心的作用と連動する。様々な状況において、私たちの「正しい」という判断は
、私たちの生における「快感」を呼び起こしうる。私たちはそういった「快感」に
酔いしれている人を発見することは難しくない。敢えて言えば、鏡を覗きこんだそ
の先に映りこんでいるまさにその人こそがそういった人であるのではないか。