日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【下書き】自然および自然権について

nature

noun

1 [MASS NOUN] The phenomena of the physical world collectively, including plants, animals, the landscape, and other features and products of the earth, as opposed to humans or human creations:


1.1The physical force regarded as causing and regulating the phenomena of the world:

 

Oxford dictionariesより

 

⑴英語のnatureと日本語の自然の意味の共通項と差異

 

⑵natureという概念の幾つかの用例とその使用上の意味の違い、またその意味の違いから生じるカテゴリーの幾つかのタイプ

 

 ⒈人あるいは人為が「自然に含まれるか含まれないか」という点に関して、「自然」という概念はそれは規定されていない

 ⒉人あるいは人為が「自然に含まれるか含まれないか」という点に関して、その使用者が「自然」の意味をどちらの意味で使っているかによって規定される

 

⑶「カテゴリーのタイプ」の差異によって生じるnatureというカテゴリーの注意事項:

 Aという現象が「natural」か「naturalではないか」を判断する場合、経験に先だった絶対的な判断として区分けできない場合がある。この「区分けの不完全性」によって自然権および自然法の基盤は安定していない

 

この上記の問題によって自然権および自然法は無意味であると断定できるか。「人為は自然ではない」という意味における「自然」、および「人為もまた自然である」という意味における「自然」という少なくともその両面から「自然権」および「自然法」を解釈し始めた場合どうなるだろうか。

 

「自然」であるという判断は、その時代の学術的な影響のおよぶ範囲において、人それぞれによって異なる。

 

かつては「虫は土から生じる」といった自然発生説が「自然」な現象と考えられていた時代があったが、今はより生物学的にこの現象は捉えられている。現代において自然発生説は「自然」なことであるとは考えられていない。

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自然権について
2014年06月09日

自然権という概念は、非常に固定化されている概念であると思う。それはヒトの自然的妥当性についての古典的解釈の歴史がその意味を固定化していったのだと思う。この固定化が揺るぎないものになればなるにつれて、ヒトの自然的妥当性の解釈から私たちを遠ざけているのではないかとすら感じられる。

自然という概念は、様々な論理的な命題の複合的な組み合わせが諸個人において脳内で発火しつづけ、それは時代が進むにつれて、人それぞれの印象を与えているのだと思う。

自然がどのようなものであるのかどうかはともかく、自然を私たちがどのように解釈してきたのかということを考えることによって、自然的妥当性に関する解釈の拡がりも見えてくるのではないかと思われる。

自然権という概念は残念ながらその意味論的分析には進まず、自然権という概念がそれ以上分解しようがない概念であるかのように捉えられ、理論を構築する最小単位として、それ以上分解できない要素としての役割を与えられてしまっているように感じられる。

こういった概念の使われ方の原因の一つには権威化が挙げられるだろう。私たちは決して付き従う必要性のない言葉の使い方を、何故か平気で行ってしまう傾向性があるのではないかと思う。こういった概念使用が何故平気で行われてしまうのかについては集団的な慣習化に由来するのではないかと思う。この問題について考える時、「ヘッブの法則」、「共鳴」という現象からも考察できるのではないかと思える。

私はこのような言語慣習について克服できると思っている。ただし、このような言語慣習を克服することによっても実際には私たちの「自然的な妥当性」は正確に明示することはできないだろう。

この問題を考えるに当たって実際に「自然」という概念がその使用上、内部矛盾を持っている点が挙げられるのではないかと思う。

私たちが「自然」という概念を捉える時、それと並行して吟味されるべき概念として「人工」というものを挙げられると思う。

しかしながら次の命題について、自然という概念そのものにはそれが真か偽か明確な答えが示されていないという点について注意しなければならないだろう。

その命題とは「全ての人工も自然である」というものである。

自然権という一見尤もらしい権利、妥当性は、この命題に明確な答えを示しえないが故に色褪せざるをえないという点に私たちはもっと向き合うべきなのではないかと思う。

私たちがもし自然権という概念と向き合うつもりならば、「全ての人工も自然である」という概念について、真であるか偽であるか、またそれ以外であるのかという点について、この両者の側、およびその否定的立場の側に立って論理を構築しなければならない。

これは非常に論理的かつ抽象的な分析であり、実際にはこのような分析にどれほどの意味があるのかはわからない。しかしながら自然権という概念の使用を棄却するにしても、またその使用を継続して使用するにしても、この作業は避けては通れないのではないかと思う。

仮にこれらの作業が全くの徒労に終わるにしても、実際に私たちが踏まえなければならない作業なのではないか。私たちが権利や義務といった概念を平然と使い続ける限りにおいて、自然的な妥当性とはどういった意味なのかという点に関しての考察は、避けては通れないはずである。

恐らく、仮にこの作業を行った末には、私たちは「自然権」という概念の梯子を外すことになるのではないかと思うが、実際はこれからも延々とこの梯子はかけられたままのはずだと思う。

私たちが闇雲に信頼をよせている概念について、その使用状況の実像をはっきりと示すことによってでなければ、その概念は依然として漠然としたまま、言い換えれば意味が不明瞭なまま、更に言えば、何ものも示していないものであるにも関わらず、無邪気な気軽さをもって利用され続けるのではないかと思う。

私たちはこれからも理由も由来も解らないものについて、権利の名を、義務の名を、付与しつづけるのではないかという懸念を抱かざるをえない。とはいえ私の目的は自然権に確固とした理由や由来を付与しようというものではない。

私が行いたいのは、あらゆる社会科学的諸概念の正当化への反駁である。

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自然選択説

 

 自然選択説(しぜんせんたくせつ、英: natural selection)とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論。厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与えるという説。1859年にチャールズ・ダーウィンアルフレッド・ウォレスによってはじめて体系化された。自然淘汰説(しぜんとうたせつ)ともいう。

 

 

自然選択
2014年06月27日

「自然選択」とは進化論などに頻繁に出てくる概念である。自然選択説を中心とするダーウィニズムに対して、用不用論を中心としたラマルキズムやネオ・ラマルキズムをはじめ、多くの批判があるのも事実であるが、ここではそれについて言及せず、自然選択という概念について考えたい。

私は「自然選択」という概念に、これが科学用語であるにも関わらず、詩における選言性、作品性を見て取る。自然選択という概念はどこか直感的選言性に基づき生まれた概念であると思う。様々な観察に基づく事実から体系的に仮説が構築されていく過程から、「自然選択」という概念が生まれ落ちたのだと感じる。恐らくこの概念が選ばれたにあたり、必ずしも自然とは何かとか、選択とは何かとか、そういった物事が十分に詰められた上で「自然選択」と見做したというよりも、漠然とこの「自然選択」という概念が生まれたのだろうと感じる。

私は権利や義務といった概念を捉えるにあたり「自然」理解や「自然」解釈というものが無関係ではありえないと述べた。私たちの自然観が私たちの生の在り方を良かれ悪しかれ規定したきたというのは言えるだろう。

私たちにとって自然の解釈は一様であるはずがない。自然観には諸個人間に差異が存在し、特に時代によってその自然観は大きく異なる。長い時間をかけて構築されてきたいわゆる「法」には、その構築にかけられた年月の長さ故に、その自然観は非常に不安定であり、古典的な自然観さえもが入り混じっている。私たちの多くの新しい権利は実際は古典的で神話的な理屈を前提としていたり、また全く古典的な無根拠さによって権威化されている。

私は自然観に関して、私たちの「推論の在り方」が大きな影響を与えており、それが「自然選択」という概念にさえも大きな影響を与えていると実感している。

その自然観は大きく分けてみると、その推論方法の前提の設定によって大きく矛盾した幾つかの自然観が発生してくる。その自然観の帰結として例えば「決定論」や「自由意志論」なども発生してくる(カントの方法論の是非はともかくも、この点において彼の「純粋理性批判」は確かに見事であると認めないわけにはいかない)。「自然選択」もある種の推論方法を前提としていると私は思う。あらゆる自然選択の説明には状況説明が必要であり、少なからず自然選択の概念は「状況説明」を前提としている。すべての「状況説明」は「設定」であることを免れない。

自然選択という概念は論理的なある構造体を前提としており、その構造体に対して疑いの目を挟む要素を実際にいくらでもあり、「自然選択説」に対して今後も批判がなくなるということは、私にはありえないことだと感じる。当然に「自然選択説」批判の一切についても論理的な構造体を前提としているが故に、理想モデルを出発点としていることは免れえないのであり、進化論に関する「論理」上の論争が絶えることは恐らく今後もないだろうと思う。それはある意味で「決定論」と「自由意志論」の終局なき論争と構造的には類似関係にあると思う。ただし、これらの論争が継続している限り、全く不条理な幾つかの論理が科学的に明らかに誤りであると見做されることはあるだろう。進化論の論争の中で科学的に誤りであると見做されてきた論理はやはり明らかに誤りであると私は思う。そんな中にあっても完全な理論は実際には完成しえないだろうという予感は確かにある。私たちの感覚器官がそういったものを完成させるために発達してきたものとみるのはどこか無理がある。

私たちの生について進化論は確かに多くの古典的な自然観が神話であると実際に暴露してみせた。同時に進化論が全く別の新しい神話を構築しているという点は実際には否定しがたい。幾つかの進化論批判は実際にはこの新しい神話に対して警戒をしていたように思える。

私は自然観における多くの帰結の差異はその推論方法の差異を前提としていると述べた。自然とは何かという問いをもし私たちが行った場合、私は推論方法とは何かという問いに行き着かざるをえないと断定したい。この点に最も早い段階でたどり着いたのは、恐らく近代ではチャールズ・パースであろう。そして推論とは何かと問うならば、恐らく認知科学に接近しなければならないはずである。ただし認知科学が十分に科学的であるかどうかについての確証は実際は必ずしもあるとはいえないのではないかとは思う。そうであるとしても私たちがなんらかの意味で「法」あるいは「ルール」について問うならば、「心」というものについて科学的にアプローチをかけざるをえないようには思う。

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レオ・シュトラウス自然権と歴史』
2014年07月20日

【 序論 】

16
「我々の社会の理想より一段と高い基準がなにもないとすれば、我々はその理想から批判的距離をとることが全くできなくなる。」

 実際に自然権であれ、何であれ理想に対する批判として確実な基準を明文化し、あらゆる批判に耐えるであろう理論を構築することは概ね無理であると思う。そもそも「自然権」、自然な妥当性、自然な正しさを示そうとした場合、相反する理論、アンチ・テーゼが混在したものにならざるをえないと思うからである。自然という概念の重要な役割の一つである、自然なものと不自然なものとを判別するというものがあると思うが、私たちは自然なものと不自然なものを明確に分離することができない。自然という概念は判別方法そのものが実際に重層的になっており、定義によって境界は多様になる。

 理想を批判的距離から眺めるためのその基準点が不明瞭にならざるをえないが故に、あらゆる理想は、決定打としての批判を絶えず免れることができる。そして様々な理想が、単に理想であるだけを根拠に、例え多くの混乱や失意を生み出そうとも、その原型をいつまでもとどめるのだと思う。

 私たちは今まで見てきたものとは異なる梯子を登らなければならない。私たちは返す刀で自然権も切らなければならない。

 

17
「現代の社会科学に従うかぎり、我々は副次的に重要な事柄すべてにおいては賢明でありうるし、また賢明になりうるであろうが、しかし最も重要な点に関しては完全な無知に身を委ねるほかない。」

18
「あらゆる「絶対的なもの」を熱心に否定しようとする試みの根底に見られるのは、ある種の自然権の承認、より正確にいえば、唯一必要なことは多様性ないし個別性の尊重だとする、自然権に関する特殊な解釈の承認である。しかし多様性ないし個別性の尊重と自然権の承認のあいだには、一種の緊張関係が存在する。」

20
「我々が理性を磨けば磨くほど、ニヒリズムを磨くことになり、それだけ社会の忠実な構成員ではなくなる。そしてニヒリズムが不可避的に行き着く実際的帰結は、狂信的蒙昧主義である。」

20
自然権の必要性が重大だからといって、そのことは必ずしもその必要性が満たされうることの証明にはならない。」

21
「理性が我々の社会の理想を乗り越えるよう我々に強いるからといって、この一歩を踏み出すことによって我々が真空状態に直面したり、あるいは非両立的でしかも同等に正当化されうる「自然権」の諸原理の多様性に直面したりする羽目にならないことを、保証するものではない。問題が重大であるだけに、偏らない理論的で公平な議論が我々に課せられるのである。」

【 I 自然権と歴史的アプローチ 】

25
「まず、第一に、「全人類の同意」など決して自然権が存在するための必要条件ではない。現に自然権の最も偉大な教師たちの幾人かは次のように論じてきた。すなわち、もし自然観がまさしく理性的であるとすれば、自然権の発見は理性の発展を前提とするのであり、したがって自然権が普遍的に知られるということにはならないだろう、つまり、未開人の間では自然権に関する真の知識など期待されるべくもない、ということである。」

 何が「自然権」であるのかという問いにおいて、「全人類の同意」が必要であるということはありえないというのは私も同感である。そもそもレオ・シュトラウスが言うように「自然権」が多様性を回避できないとするならば、また諸個人においてその意味に差異があるならば、自然権の是非に対する「全人類の同意」が仮に成立したとしても、建て前としての「同意」という枠組みをまず抜け出せないと思う。いわば、憲法における「国民の総意」と部分的に重なるまやかしがそこにあると思う。

 コンスティテューションに関わる議論においてこの種の同意を前提としている場合がしばしば見られるが、物事を権威化する上で、常套句に類するものとして捉えたとしてもその方法的問題は小さくないものなのではないかと思う。

 未開人に自然権の知識を期待されるべくもないというのは部分的には合意できるが、現代人において、自然権が知識として確固たる地位を得ていないことを見ると、十分な見解とは思えない。私は「自然における妥当性」は社会における諸個人においてその解釈は絶えず曖昧であり差異が存在し続けるだろうという意味では、「自然における妥当性」の模索は、個人によって確立されるという側面も指摘しないわけにはいかないのではないかと考える。

 自然とは何かという問いに対して、私たちは確かに社会の一構成員として様々な知識を得られるのだが、その最終的査定は個人によって見極められるというこの一点は常に注視すべきだろうと思うのだ。

50
「自らの基本的経験を考慮しつつ、徹底した歴史主義者は、歴史主義者の命題の決定的な、そしてその意味において超歴史的な性格が、その命題の内容を疑わしいものとすることを否定する。」

 政治思想の様々な立場を超えて、私たちは屡、というより極めて頻繁に歴史的事実にとりつかれる。個別的な歴史的諸事実が、帰納的推論に基づいて、ありとあらゆるケースで、再び繰り返されるかのように、そしてそれ以外に考えられないかのように表現される。

 歴史主義は社会における諸現象において、物理学のように徹底して純化された理論をもって、その純化された理論の応用が許されるようなケースにおいて活用するという方法論と、殆ど同義的役割を与えられている。

 歴史主義にせよ、反歴史主義にせよ、社会の諸現象に対して使用するには、現実はあまりに不可知的である。私たちがもしこの不可知性をなんらかの形で示さなければ、私たちの歴史主義や合理主義によって出し惜しみなく提示された理論に、一切の批判の機会が剥奪されるに違いない。

 私たちは俎上の論理をその内側でしか判別できない。従って論理それ自体の不備が指摘されない限り、その論理はたちまち恐るべきほどの権威を持ってしまうことだろう。

私はレオ・シュトラウスのアプローチには幾分不満を持っている。しかしながら、観点の多くは重大なものであると思う。

30
「かくして普遍的原理を承認することは、運命によってあてがわれた社会秩序に対して、人々がそれを心底からわが物にしたり、それを受け入れたりすることを妨げることになりやすい。それは人々を地上における居場所から疎外し、彼らを異邦人に、地上によるべなき異邦人にさえしてしまいかねない。」

31
「革命家たちは、自然的なものはつねに個別的であり、したがって斉一的なものは不自然ないし人為的である、と想定していたと言ってよい。」

 「自然」とは何かという問いは、非常に厄介な問いであると言ってよいだろう。従って「自然権」という熟語も同時に厄介な概念にならざるをえないだろう。naturalばかりではなく、rightという概念が持ち合わせている曖昧さが「自然権」という概念を更に捉えどころのないものに作り上げていると見ることもできるだろう。

 レオ・シュトラウスは「自然権」という概念が歴史的に解釈される過程にあって、革命期の思想、および歴史学派の思想を取り上げている。「自然権」というその指し示す意味が、何らかの意味で安定的なものに仕立てられていくなかで、同時に「自然」も「正しさ(right)」も歪な形で固定化されていったのではないかと推測する。その歪な形で固定化されていったものへの、歴史学派の痛烈な批判によって更に歪な形のまま、私たちの「自然」も「正しさ」も墓碑の下に埋葬されてしまったと考えることもできるのではないか。

33
歴史学派は、普遍的規範の存在を否定するのではないにせよ、その意義を否定することによって、現実的なるものを超越せんとする一切の努力の唯一堅固なる基盤を破壊してしまった。したがって、歴史主義は、18世紀のフランス・ラディカリズム以上に極端な近代的現世主義の一形態であると言うことができる。」

34
「しかしながら、歴史研究から我々は何を期待しうるかについて歴史学派が抱いていた考えそのものは、歴史研究から得られたものではなく、18世紀の自然権の教理から直接また間接に由来した仮定の結果であった。」

 レオ・シュトラウスのこの主張は妥当であると私は思う。少なくともそれが18世紀の自然権の教理であるかどうかはともかく、歴史研究からは普遍性は最終的には導きだすことができない。歴史的事実を、様々な物事に応用しようと試みた時、何らかの方法を彼らは採用しなければならない。その方法論は歴史を発露としていない。

37
「歴史そのものが我々に示すのは、思想と信念の恥かしいばかりの多様性、とりわけ、人間がいだく思想と信念のすべては過ぎ去るという、気のめいるような光景である。」

38
「すべての人間の思想が特定の歴史状況に属するものである以上、人間の思想はすべてそれが属する状況とともに消滅していかざるをえず、新たな予知できない思想に取って代わられねばばならない。」

41
「一切の教理は、それがいかに究極的なものにみえようとも、早晩他の教理に取って代わられるであろう。」

44
「歴史は、歴史主義者の推論を正当化するどころか、むしろ次のことを証明するように思われる。すなわち、あらゆる人間思想、そして確実にあらゆる哲学思想は、同一の基本的テーマないし同一の基本的問題に関わっていること、したがって事実および原理についての人間の知識がどのように変化しようとも存続する枠組みが存在するということである。」

59
「17世紀以来、哲学は一個の武器、したがって一個の道具となってしまった。この哲学の政治化こそ、知識人の裏切りを告発する一知識人によって、我々の困難の根源として認められた当のものであった。」

【 II 事実と価値の区別と自然権 】

2章はレオ・シュトラウスによるマックス・ウェーバー批判になっている。私自身、何故ウェーバーがそれほどまでに社会科学の方面において権威があるのか、実は理解できない。そのためかどうか知らないが、レオ・シュトラウスウェーバー批判には密かに共感するところがある。

79
ウェーバーニヒリズムが高貴と述べうるためには、我々はウェーバーの立場と袂を分かっていなければならないのである。」

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自然権考察の骨組み
2014年07月28日

 レオ・シュトラウス(1899-1973)は自然権(Natural Right)を再び問い直すに当たって、プラトンアリストテレスまで遡り、キケロ(BC106-BC43)やトマス・アクィナス(1225年頃-1274)、更に当時の伝統的政治哲学に反旗を翻したホッブズ(1588-1679)の『リヴァイアサン』、自然状態とは何かを模索したロック(1632-1704)、自然状態の回帰を求めたルソー(1712-1778)、自然法を認めつつ、自然状態に批判の眼を向けたバーク(1729-1797)、更に自然法に抗した歴史学派、マックス・ウェーバー(1864-1920)に至るまで論じている。

 実際に、レオ・シュトラウスの指摘や認識には感心させられることが多く、出来る限りフェアであろうと心がけているように感じられる点など学ぶ面も多い。しかしながら、自然法を論じる上で、「認識論」に焦点を当てないのは問題があるのではないかという点は指摘しないわけにはいかない。もしかすると他の著作で論じているのかもしれないので、私の批判は的外れである可能性はある。哲学史において「認識論」に関連して名前が挙げられるジョージ・バークリー、デイヴィッド・ヒューム、イマヌエル・カント(1724-1804)をどう捉えるかによって、自然権解釈も変わってくるのではないかと思う。

 自然とは何かを判別するためには、自然を見つめ感じる私たち自身の認識論を論じる必要性がでてくる。また、エドマンド・バークによって痛烈に批判の対象となった「形而上学」は、更に時間を下ってアメリカの独創的な哲学者チャールズ・パース(1839-1914)によって再考されており、恐らく私たちは「形而上学的な抽象」とは何かということも問い直す必要がでてくる。私たちの認識論が変化することによって、私たちの自然観は変化するのである。従って、自然観が変化するならば、自然における妥当性(correctness on nature)、自然における正しさ(the right on nature)、つまり自然権についての認識も私たちは改めなければならないはずである。

 また、ホッブズが論理的に自然を捉えようとした事に対して、その自然とは何かを考える上で使用される論理そのものに対してルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)が、その語りえることの境界を模索した点について、私たちは論じる必要がでてくる。

 更にルソーが原始社会に理想を求めるという時間的遡及は、科学技術の進歩により歴史学的遡及から更に自然史的な遡及へと進んでいる。原始社会と近代社会という二元論的対比は必ずしも妥当ではない。私たちは自然に対して新しい認識を持っている。自然史はかつての聖書や神話に見られるものとは違った背景を持っていることを私たちは突きつけられている。そうであるにも関わらず私たちの自然権は前近代の思想をバックボーンとしたままだ。環境系の政治団体であっても古典的な認識論から脱却していない。

 自然は私たちの想像を絶する程度で、ダイナミックに変動している。この変遷に対処することは極めて困難なことに違いないと私は認識している。文明の急加速的な変化は必ずしもより善き社会になることを約束していない。

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 生没年を入れたのは前後関係を明示したかったから。

 自分と同じようなことを考えている人には、まず、お目にかかれない。何故だろう。しかしそのことを気にする必要など何もない。私は私なりに考えてきたのだ。誰かに追従する気にもならない。

 政治学に科学を持ち込むことをタブー視する言論を見かけるが私には到底理解できない。そもそもサイエンスとはかつて学問を意味し、政治学もサイエンスの一種とみることもできる。私が科学技術を神聖視していると誤解しないで欲しい。私たちが問題と考える多くの事柄は科学技術を発端としていると私は認識している。しかしながらそのことを論じるために科学技術を取り除いたとしても神話のような、あるいは骨董的な学問によっては何も見出されることはない。自然科学を持ち込んだとしてもそれほど大きな違いはないかもしれないが、持ち込むべきではない理由はどこにも存在しない。

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自然、起原、時間
2014年08月13日

自然権の必要性が重大だからといって、そのことは必ずしもその必要性が満たされうることの証明にはならない。――レオ・シュトラウス

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 スピノザの『エチカ』、第三部感情の起原と本性についての序文に対する批判を表現することによって、幾つかの論点を明確にできればと思う。

172
 「これまで感情と人間生活について書きしるしてきた人はたいてい、共通な自然の諸法則に従う自然の事象を考察の対象としないで、それをあたかも自然の外側にあるかのように考えて、論じているようである。それどころか、自然の中の人間を国家のなかの国家でもあるかのようにうけとっているらしい。というのも、その人たちは、人間は自然の秩序に従うより、むしろそれを混乱させるものであると考え、自分が自分の行為にたいして自分自身以外の、どのようなものによっても導かれないですむ絶対的な力の所有者である、と確信しているからである。」

 私はこれまでも「自然」というコンセプトに焦点を当てているが、自然という概念を取り扱う事に関して、私はこの文章のスピノザに部分的に同意しつつも批判する立場に立ちたい。

 私がスピノザを批判するに当たって、私はスピノザと異なる時代を生き、従って彼とは違った道具を使える立場にある。私はスピノザその人を全面的に否定する立場にもないし、そうする妥当性もないと考える。

 当時と比較しても「自然」という概念を取り巻く知識は大きく変化している。私はこの知識の変化を持ってスピノザを論じなければならないが、私の知識不足や怠慢による不備は克服できない。

 彼らにとっての「自然」とは現代よりもずっと漠然としている。一つに「自然」の起原、源について「時間軸」を与えることができないという位置にある。

 スピノザが「神」の概念を思いめぐらす時に「永遠」なるものから「時間」を外さざるをえなかったのは、時間に対する論理的、学術的、あるいは修辞的な準備が当時十分に考察されていなかった事も視野にいれる必要があると思う。

 私たちにとっての「自然」の概念に付随してくる「時間軸」は、当時よりもずっと「鮮明」である。それが十分に説明されているか、あるいはそれが十分に妥当であるかどうかはともかくも、その「鮮明さ」は明らかである。この「鮮明さ」を確固たるものとしているのは「自然科学」の存在である。

 私たちが「自然」の中から一般法則を見出そうとするのは、私たちの生における不条理さを克服せんがためであるという所があるのかもしれないが、私たちが「自然」の中から法則を見出す時、その法則は、必ず不条理を「制御」しえる代物と見做すためには不十分であるという側面が強いと見做してよいだろう。

 スピノザは「エチカ」の第二部の定理14において、

115
 「人間精神は、きわめて多くのものを知覚するのに適している。そしてその能力は、身体がより多くの仕方で影響されるにつれて、それだけ大きくなる。」

と見ている。

 この論点を一個人の精神や身体から説明するのであれば、その説明は不十分であろうが、「自然」という側面から見るならば妥当性がでてくる。「エチカ」における説明では不十分であると思うが、かなり下った時代の学説である所謂「進化論」などと照らし合わせるとその「起原」がより正確に見えてくるのではないか。

 自然の「起原」を模索する時、進化論を基調として考えるならば、スピノザが批判する「国家のなかの国家」、自然を階層的に見た場合の「自然のなかの自然」という観点から見た「人」という存在にも、私は妥当性があると思う。人類という存在を除外した「自然」と、人類という存在を含めた「自然」とはもしかすると違いは小さいかもしれないが別物であると私は思う。

 言い換えるならば、「人類」にしか通用しない規則性が存在するという点をここでは指摘したい。その規則性を見出せたとしても、自然のなかの自然としての人が、全体としての自然、あるいは社会に及ぼす影響を明確に算出するのは不可能に近いだろう。

 私たちは私たちが見出した法則性や規則性を参考にすることはできても、それによって複雑な現実の世界において確実な因果律を導き出したり、未来を確実に予見することはできないだろう。私たちは前者を足掛かりにできるが、後者によって安楽することはできないし、それを期待するべきでもない。

 ヨーロッパにおける思想は極度に思弁的な所があり、当時の神学から比較的自由な思想であるスピノザにあってさえも、極端に抽象的である。とはいえ、日本における思想も抽象的な側面は決して小さなものではない。実際に私は抽象的な表現を否定する立場にはないが、それでも具体的な対象に迫るのであれば「観察」することに焦点をあてなければならない。それは絶えず私たちが見出した法則性や規則性がなんらかの意味で裏切られる可能性があるからだ。

 私たちがスピノザのように「倫理」的な領域に関心を持つとしたならば、彼のように身体や精神、感情といったものについて関心を払わなければならないだろう。私はその身体や精神、感情といったものの「起原」の模索においては、「自然」の中に「時間軸」をあてる必要があると考えている。その一つが進化論的考察である。この点に関して私が「弱肉強食」である生物の進化の過程から、そのあり様を人間社会において適応させるべきだと考えているとは捉えないで欲しい。

 私はそういった考え方に関して「設計主義」的な社会工学である可能性があると考えている。

 この論点については今後発展させていこうと思っている。

 

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自然権および基本的人権の考察

2014年09月22日

自然権」および「基本的人権」という手垢に塗れた概念が何を意味するのか、実際にそれが判然とした概念なのかと問えば、否定的な答えを返すしかない。

これらの概念を下支えしている「自然である」という事がそもそも不明瞭である。

単純に何か一つの事実について、それが実際に「自然である」事なのかそれとも「不自然である」事なのだろうか。それは単にその事実に対して「自然である」あるいは「不自然である」という命題が、恣意的に関係づけられるだけなのではないか。恣意的な関係というのは少し言い過ぎかもしれない。ただ、何か完成された法則には従っていないのではないかと思う。

繰り返して言うが、私は「一つの事実を提示する」という前提条件を付与してる。

それは出来る限り具体的な事実の方がよいのか、それともある程度抽象的な事実でもよいのかと問われれば、実際にその両者からアプローチをかけてみるという方法を取ればよいと思う。

私は実際に絶対に「起こりえないこと」については「不自然なこと」と見做す。この絶対に「起こりえないこと」を最もよく説明するのは物理的論理であろう。心理的なものを説明する論理については物理的なものを説明する論理ほどよく根拠を説明できないものが多い。仮にそれがよく説明がつくと見做すのに十分であると見做すためにはそこに物理的な現象を説明する論理が付与されていなければならないだろう。これは利己主義とはなんら結びつかない。

私が問題にしたいのは「起こったこと」と「起こりえること」について「自然である」のか「不自然である」のかという問題についてである。またここでいう「自然」という概念は曖昧ではあれ、多義的に捉えることができる。この場合そのそれぞれの意味に対して「自然である」のか「不自然である」のか判定を試みるとよいと思う。

このような試みは「意思決定」の問題と関わる。

私は「歴史主義」も「自然主義」と完全に分離すること、境界を引くことは不能なのではないかと考えている。「歴史主義」は「帰納法」を「推論」と見做すことができない時に私たちに現れる性格である。

ある事実についてそれが「自然である」のかまたは「不自然であるのか」を問う場合、私たちは何故「自然である」のかまた「不自然であるのか」を説明しなければならない。この場合、そこに付与される説明が「自然である」理由あるいは「不自然である」理由として適正であると見做す判断材料を私たちは明確に指示できなければならない。ここでは実際に明確に指示できるかどうかは問題にしない。一つの純粋に理想的な方法として提示しているに過ぎない。

もし「自然」という概念のある意味において「自然である」が、別の意味では「不自然である」としたならば、ある事実が「自然である」と言い切ることは論理的に問題がある。こういった名辞の中の別の意味に対して思慮が足りないとしても問題がないという「意思決定」は確実に存在しているし、事実存在しえる。

私たちは「起こりえる」すべてのことについて、もしかすると「自然である」といえる立場にあるのではないか。この場合の「自然である」ことが意味するものはもはや空虚と言えるだろうか。

「自然である」というのは一つの期待値である。何故なら「意思決定」によって選定されている。

現代の法理論が前近代から殆ど前進していないと仮定したならば、それは何故なのだろうか。社会科学において法理論こそが最も現代科学を拒絶している。その根拠を挙げるならば、恐らく「意思決定」能力を失うと見做しているからだろう。