日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

未熟な防衛機制と成熟した防衛機制

前置き

 精神分析の用語に防衛機制という言葉があります。

 防衛機制には、投射、退行、抑圧、同一化、合理化など、決してよい意味では用いられていないものが多く見られると思います。

 まず、このことについて何故防衛機制があまりよくない意味で使用されることが多いのか考えたいと思います。

 人類が近代に移行していく中で、心とはいったいどういったものであるのかということについても科学的に研究されてきたと思います。

 その過程は、二つの経路から発達してきたと思います。

 一つは実際に人と人とが接する中で、その心の変化と向き合うといった方法が挙げられると思います。これは特にS・フロイトなどに見られる方法です。

 もう一つが、実際に身体の器官、特に神経系のメカニズムを明らかにすることによって解明するという方法です。

 現在においても心がどういったメカニズムで働いているのかという疑問は必ずしもはっきりと解明されているとは言えないでしょう。

 最先端の科学的な解明がどのくらい進んでいるのか私にはわかりませんが、広く一般に知られている心の理解というのはあまりはっきりとしたものではありません。

 最初期の精神分析は、特にこの後者についての知識が不十分であったと思います。

 実際に心の様々な現象を前にして、そこで使用されている用語は曖昧な表現も多く、様々な混乱や偏見を生み出しやすいもの原因になっている所があると私は考えます。

 イギリスの哲学者G・ライルは『心の概念』の中で、心を捉える時に使用する言葉の問題について考察してます。

 科学的に、特に物質論的に心を理解するというのは今でも難題の一つだと思いますが、実際に人々が抱える心の問題は、優れた科学的な解明やその方法が誕生するのを決して待ってはくれません。

 また、実際にそういったものが完成するという保証もまたありません。

 人類が長い歴史の中でも特に心の問題と真剣に向き合う時、それは非常に切迫した人々の状況がその背景にあったと思います。

 憂鬱とした感情や、暴力や奇異な行動、そういったものと向き合うことが精神分析学や心理学にとって急務の問題だったのでしょう。

 精神分析学や心理学の発達の過程は、まずそういった人々の行動や心理を冷静に知る必要があります。それをどのように克服していくのかという問題はその後になるわけです。

 その結果として、成熟した防衛機制というものについての考察は実際に後回しにされたのだと思います。

 私たちの人生や、また人類、また社会への助言としての精神分析学や心理学はまだ発展途上の段階だと思います。

 旧来の政治学や経済学は、他の諸学問に対するのと同様に心理学の助言にも耳を傾けるべきでしょう。

 また心理学もまた諸学問からの助言に耳を傾ける必要があるかもしれません。