日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】考え方の同一性と差異性

ここでは思考の同一性差異性について考察していきたいと思います。

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他者とどのように向き合うことがよりよいことなのかという疑問についての試論です。

わたし自身、実は私の考えていることが解っているようで解っていません。また自分が考えていたであろうことに案外に早く否定したくなることも密かに知っています。

よく経験することですが次のようなことがあります。私が比較的真剣に文章を書いる時のことですが、その文章を書いた直後に、それを実際に読み返してみるとそれなりに満足することがあります。ところが数時間後、時には数日後それを読んでみるとひどく落胆させられるのです。自分が書いた文章が大したものではないことは理解しているつもりではいても、書いた直後の満足がまるで嘘のように感じるわけです。

これだけならまだいいですが、それより以前に書いている文章の方がその時の自分の感覚に近く、読んでいる文章の方が遠く感じさえするわけです。場合によっては数年前に自分が書いた文章に対して、とても自分が書いたものとは思えないような感覚を覚えることもあります。

 

自分に対してさえこのような感覚であるのに、どうして他者に対して自分と同じ考えであることが要求できるのでしょうか。わたし自身、何故か文章を読む限りにおいて他者と感覚が近いと感じない傾向があります。むしろ日常的な会話をするときの方が共感することが多いのです。

そういったわけで、日常的な生活にあっては他者を応援したり、励ましたりできるにも関わらず、文章になると途端に応援できなくなったり、励ませなくなったりします。日常的な会話程度の文章であるならば別ですが、特に社会のあり方や、個人のあり方を問うような場合になるとひどく強い違和感に駆られてしまいます。

 

実際には共感しているところもあるわけですが、時にはその考え方の小さな違いによって大きな苛立ちを呼び起こされるわけです。

次のような場合は特に違和感を感じるようなことはありません。食べ物や何かの商品の是非については特には何も感じないわけです。ところが行動にかかわる心理的な背景がある道徳的な話や思想信条の話となると難しくなります。

このような時、特に次のような行動を呼び起します。一つに反論したくなる衝動に反応して反論します。もう一つが反論したい感情はあるけれど、反論したところで平行線を辿ると思うので何も反応をしないことを選択します。どちらの行動を選択するべきかは解りませんが、どちらの行動も最善の方法であるようには感じません。

 

次のような方法を取るならばどうでしょう。

他者の文章に対して反論がありますが、その反論を自分の意見ではないと仮定した上で提示します。これは嘘をついていることになるかもしれませんが、一概にそうともいえないような気がします。その理由は先ほども述べた通り、自分が今自分の意見だと思っていることにたいして、今とは違う過去および未来の自分は共感しない可能性が大いにあるからです。

言い換えるならば、その時々の頭の中のネットワークのあり方が違うわけですので、今たまたま頭の中で合理化されているものが自分の意見の全体であるとみなすのには無理があるとも考えることができるでしょう。

次に相手の文章に共感できない点に関して、目をつむり共感している点に関してだけ共感していることを表明するという方法です。これについても嘘をついているような感覚が残りますが、意見の相違を強調することによって互いに嫌悪感を加速させることには、あまりメリットはありません。

相手に共感することへの反応と、相手への反感への反応とでは、実際に反感の反応の度合いの方が遥かに強い印象を与える可能性が高いと思います。これはヒトであるが故の一種のメカニズムだと感じます。

ただし、必ずしも共感を表明してさえいればよいというわけにもいかないような気もします。反論をどのように相手に伝えるかというのは実際に重要なことでしょう。実際に速やかに反論しなければならない状況というのはいくらでも想定できます。実際にその反論が相手に受け止められるかどうかはわかりません。また、相手に受け止められないとしても、反論したほうが遥かによいと思うような状況などもいくらでも想定できます。とはいえ、ちょっとした意見交換の場がそのような状況であるとは思えません。

結果的にはその状況判断や伝える技術は諸個人で築き上げていかなければならないものなのでしょう。万事うまくいくなどとは考えられないし、またその状況判断や、自分の考えが正しいとも言えない場面などもあるでしょう。ともあれ、このような心理上の葛藤こそが、社会の人間交際のあり方を模索する上での楽しみでもあり、時に苦しいものでもありますが、社会の楽しみや喜びの礎となるものとも解釈できるかもしれません。