日常風景のなかで

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【試論】名辞なき想像の諸領域

ここでは想像することについて考察していきたいと思います。

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「想像してください。」と私がいったとき、あなたは一体何を想像するでしょうか。

何か特別なことやものを想像したかもしれません。もしかすると「何を想像しろというのか。」と思ったかもしれません。私のこの問いかけに思い浮かんだものが想像というものだと思います。「何を想像しろというのか。」というのも一つの想像だと思います。

私がここで提示したいことは、「想像しているとは何か。」という問いかけに対して、論理的にその想像の対象を区分するための名辞が不足しているのではないかというものです。

 

用例1

例えばあなたの目の前にテーブルが置いてあるとします。そのテーブルの上にはリンゴがあるとします。またテーブルの上にはノート型パソコンが置いてあり、そこから何かクラシカルな音楽が流れているとします。あなたはそのリンゴを見ています。あなたはまたそのクラシカルな音楽を聴いています。

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⑴私はここでそのリンゴをあなたの目の前から取り去り、その音楽をとめました。

 

恐らくあなたは私にリンゴを想像してくださいといわれたとすれば、リンゴを想像できるでしょう。また、さきほど聴いていた音楽を思いかえしてくださいといえば、その音楽を知っていたのであれば、その音楽を思いかえすことができるでしょう。

 

実物が取り除かれたのにも関わらず頭の中で私たちは想像することができます。

 

「リンゴを想像する。」という表現は非常によく使われます。

「音楽を想像する。」と言う表現はもしかすると「リンゴを想像する。」という表現ほどしっくりこないかもしれません。

 

それでも次の点で両者には共通点があります。視覚および聴覚などの感覚器官によって見たり聴いたりすることは、実際に目の前にないとしても想像することができます。もしかすると味覚、嗅覚、痛覚などは少し違うかもしれません。

 

特に視覚から得られた像は実際にそれを見ていないとしても、経験的に見たことがあるなら想像することができます。聴覚についても同様でしょう。

 

私たちが想像するという言葉を使用した場合、必ずしも視覚的な想像や聴覚的な想像を必ずしもささないでしょう。想像という言葉の使われ方は一般的により広義的に使われています。言葉によってあれこれ組み立てたり、頭のなかでロジカルな組み立てをしたり、様々なことについて使われます。

例えば何か想像していることについてより分析的に考えたとしても、そのとき、頭のなかで個別的に起こっている現象の一つ一つについて実際は厳密にそれを区分する名辞が不足しています。

 

この点について、恐らく科学的な用語を与えることは難しいと思われます。その一つの原因として「指示することができない」という点にあります。

 

よく会話の中で次のような表現を耳にすることがあると思います。

「あれがそれをそうしたんだよ。」

会話の流れから場合によってはあれが何を指し、それが何をさし、そうしたが何を指すのか推測できることもあるでしょう。

それでもほとんどのケースで何を言っているのか解らないと感じると思います。

 

「指示することができない」ものを指示する言葉というのは実際には沢山あります。

  神 心 世界 宇宙

このようなものが何を指しているのかを私たちは恐らくある程度理解しています。それでも「神とは何か」とか、「心とは何か」と言っても何やらはっきりしない所があるというのも事実でしょう。この種の言葉ははっきりと明確に指示される事を前提としていない言葉のために、時にほとんど意味の解らない抽象的な議論ばかりが展開されることになります。

 

「指示することができない」にも関わらず、そこに何らかの区分がある場合は何かしらの意味で「指示する」ことを試みられるものだと思います。

 

想像することの更に細部に入ってその対象を指示するというのは難しいと思います。しかし明らかに想像しているリンゴと想像している音楽との間には小さくない違いがあります。

 

科学的に用いられる心の機制を表現するための用語のなかにはシナプスニューロンといったものがありますが、実際に心のなかで作用している一つ一つの現象までははっきりと指示することのできない用語だと思います。

それとは逆に文学や心理学、哲学などで使用される用語は、言葉の組み立てが比較的容易であり、何となく相手にニュアンスが伝わります。それでも厳密に科学的に何かを指示しているとは言えない用語の集まりです。

 

私たちはこの両者からのアプローチによって心というものを解釈しています。どちらかというと日常的に心の話をする場合は、科学的で物質論的な用語を使ったりはしないでしょう。それでもある程度、そのことを了解していれば、心との向き合い方も違ってくると思います。場合によっては、人工知能のメカニズムによってこのあたりの表現が補完される場合もあるでしょう。

 

私は人の心というものを顧みない社会学的考察は恐らくうまく行かないだろうと確信しています。心が想定されていない社会科学における価値論は概ね幻想だと確信しています。何故、社会科学の多くは心を深く理解し想定して考えないのかといえば、実際に心という対象がはっきりしないためだと思います。一つだけ付け加えていうならば、私たちが私たちと向き合う時、その提案の多くは「仮説形成」によって提示されているということです。このことと向き合っていない議論があまりにも多すぎるような気がしてなりません。

 

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この点に関して更に幾つか考察していきたいと思います。

 

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