日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】公的な活動と私的な活動、集団的な活動と個人的な活動

試論です。

 

 

私たちの活動の多くは様々な形で公的なものであったり、私的な活動であったり、集団的な活動であったり、個人的な活動であったりします。

幾つかの活動には税金が投入されています。その活動が市場経済において自立的に活動できないものと考えられ、かつその活動の社会における価値が高いと考えられている場合などがその理由なのだと思います。

これらの活動は、私たちが信じる限りにおいての公正性を確保するために基本的には形式化されなければなりません。

私たちが税金が無駄に使われていると考える場合、それが例えば自立的に活動できる場合、またその活動の社会的な価値がそれほど高いものではないと判定された場合だと思います。場合によっては過去に希少な価値であるとみなされたものが、その未来にあってはその希少な価値がないものとみなされることもあります。

税金の分配は基本的に行政および国会を通じてその価値を査定されますが、必ずしも社会において価値が高いと見做されるものが国会や行政機関において常に審議されているとはみなすことはできないでしょう。また政府とは別にそれを見出そうとする活動も実際は盛んであると思います。

市場において価値は貨幣によってその価格が計られています。ここでいう価値観とは、商品やサービスの購買欲求を前提としています。

この欲求に基づく集合的な活動が市場における活動であり、ここに一つの神話が盛り込まれています。「見えざる手」というのがそれです。

 

見えざる手 - Wikipedia

 

「見えざる手」についての一つの結論を言ってしまえば、市場における諸活動の結果にどのような社会を構築するとしても、それは「見えざる手」の結果なのでそれを受け入れなければならないという極論を形成するための仮説として機能しているという点でしょう。概ね「見えざる手」という仮説様式はどのような社会形態でも適応しえる側面があります。恐らくこの「見えざる手」という側面に対して小さくない反発をもって生まれたのが「功利主義」なのではないかと私は思います。

 

功利主義 - Wikipedia

 

多くの功利主義もまた実際にはその「ユーティリティ」を説明していない場合が多いので、「見えざる手」信仰とそれほど変わらないところがあるかもしれませんが、両者ともに、その仮説の帰結が如何様なものを招こうとも、それを押し通そうとする側面があるような気がします。

ルソーの社会契約論においては、「進化適応環境」の問題が盛り込まれているような気がします。ここでいう進化とは進歩主義に見られるような観点ではなく、よりマクロ進化の次元でみるとずっと保守的にならざるをえない気がします。保守的というよりは更にもっと時代を下った次元に可能性を求めたという意味では、また別の意味で進歩的なのかもしれません。

 

デイヴィッド・ヒューム - Wikipedia

ジャン=ジャック・ルソー - Wikipedia

エドマンド・バーク - Wikipedia

 

現代の特徴の一つとして、この「進化適応環境」を大きく逸脱しているとみることはできると思います。この観点からみると、人口が減り、少子高齢化社会になっているとしても恐らく驚くべきことではないでしょう。DNAの設計図に基づく適応者の構造が、その外の環境の著しい「発展」というなの「変化」によって適合しにくくなっています。

 

ティンバーゲンの4つのなぜ - Wikipedia

 

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市場経済は恐らくこの「進化適応環境」から逸脱する方向に向かわせる傾向にあるものだと思います。私たちはDNAの適正ではなく、恐らく心理的な防衛機制によってこの「進化適応環境」から逸脱した状況に対して「適応」を目指さなければなりません。ストレス社会という点で言えば、かなり無理のある防衛機制が働いているためであると見做すことができるかもしれません。

 

防衛機制 - Wikipedia

 

私が思うにもう少しこの「進化適応環境」というものを正視する必要があるのではないかと思います。私は「野生にかえれ」などという気は全くないですが、少なくとも「野生をもう一度想起しなおそう」くらいの事は主張していいような気がしています。

「科学技術」を手に入れるその傍らで、「進化適応環境」を手放しています。しかし、科学技術はこの「進化適応環境」」に対しても実際は焦点を当てられるはずです。私たちの「ユーティリティ」とは何かという問いに対しても再度検討が必要なのではないかという意味でも、「古典的自由主義」および「功利主義」などにもある程度の期待の余地は残しうるのではないかと思います。

 

移民政策 - Wikipedia

 

移民政策などの是非はここでは問わないとして、移民政策には様々なその政策をするための根拠が提示されていますが、その一つの裏側の要素には「進化適応環境」、私たちの生活にとっての「適応環境」を整えるというものがあるのではないかと思います。しかし、実際にはその「適応環境」とは同一のものではありませんので、新たな不適応環境が生じると懸念されても間違いではないでしょう。

科学技術を手に入れ、かつ適応環境も手に入れたいというのは甚だ欲深い願望のような気がしますが、いずれにせよ、社会はそういったものを手に入れることを望み、進んでいるような気がします。少なくとも適応環境を手に入れていると見做すのは少し無理がありそうですが。