日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】ヒトというブラックボックスへのアプローチ

試論です。

 

 

私たちの社会を構成する人々がどのような存在であり、何者であるのかという問いには恐らく様々な回答が寄せられるのではないかと思います。

この社会を構成する人々と実際に関わる人々は様々な背景を持って彼らと接することでしょう。

政治学的な背景、経済学的な背景、経営学的な背景、教育学的な背景などそのバックボーンは様々なものだと思いますが、より日常的な意味では友人関係や家族関係、恋愛関係などにおいてもその関係性は様々なものがあると思います。

私たちにとってこのような人々、つまり他者はどのような存在なのでしょうか。また他者とは別に自分自身についてもどのような存在なのかという問いは発せられていると思います。

私たちが視覚や聴覚などの五感を通じ、また記憶などの情報も通じて知りえる他者はある意味ではっきりとした存在であると認識できるケースもあると思います。

このはっきりと他者を認識しているという感覚が時折、奇妙な軋轢の原因にもなります。また認識していないということもまた同時に軋轢の原因になります。

私たちはここで他者をはっきりと認めているという感覚とは別に、他者をはっきりと認めていないのではないかという疑問を想定することができます。

この他者をはっきりと認めていないという認識の言い分には、他者をはっきりと認めているという認識の言い分と同様に有力なメッセージを含んでいます。

この懐疑的な態度は時折、不快な感情を呼び寄せるものですが、同時に他者をはっきりと認めているという認識そのものも不快な感情を呼び寄せる可能性があるだけに、その懐疑的な態度についての良し悪しの判定は主観的なものに留まります。

私たちは自分についてもそうですが、他者についてもはっきりとその存在、人格、行動規範などを含めてよく解らないものであると思える可能性が絶えずあります。この性質をブラックボックスとしての性質と類比して考えることができるかもしれません。

このブラックボックスを覗き込もうとする方法には恐らく様々なアプローチがあると思います。一つにその行動から読み解くアプローチ、二つにその思考のあり方から読み解くアプローチ、三つにヒトという存在の構造から読み解くアプローチがあると思います。このどの道筋から辿ってもこのブラックボックスを完全に知る手立てはありません。

そこで私たちは自分を含めてヒトに対して、どのような存在であるのかを考える場合、そういったアプローチからの推測によって、その真偽を理解しようと試みます。

私たちが自分を含めてヒトがどのような存在であるのかは、完全に理解する手立てがないこと、その中でその真偽を理解しようと試みるということ、この点から正しく知るという事とは別に、仮説立てて理解するという考えを取る必要があります。

実際に、視覚や聴覚などの五感による情報や記憶に基づく情報などからはっきりと自分や相手を理解していると思える場合がありますが、それとは別に私たちは仮説立てて理解しているという視点を導入する必要があるでしょう。

ブラックボックスへの三つのアプローチは学術的に言えば、行動心理学的なアプローチ、哲学的な認知心理学的なアプローチ、生物学的な解剖学的なアプローチであるというと解りやすいかもしれません。私たちははっきりと人を理解しようとするときにこのようなことを意識してはいないでしょう。しかし恐らく、こういったアプローチからブラックボックスを覗き込もうとしています。

これとは別に規範とは何かという問題にも触れなければいきませんが、このブラックボックスとしての他者がこの規範と触れるという視点から規範とは何かという問いを発する必要性がでてくると思います。

多くの規範に関する仮説立ては、このブラックボックスとしての人々をよく考察されずに立てられていると見做しえるものが実際には多く存在します。私たちは規範を前にして、時にそのブラックボックスとしての他者の問題点を明らかにしようとするケースを多く見ることでしょう。私たちはその規範の側こそに、時にブラックボックスとしての人々を考慮してその問題点を明らかにする必要があるケースもあると思います。

時に自己犠牲を強いるような様々な状況は、やがては社会を締め上げてしまうことに直結してしまいます。私たちが人格形成と向き合うとき、私はこのような視点を書き加える必要性を強く強調したいです。