日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】共感と公平性

共感と公平性について

 利他的であるということと利己的であるということは人類が始まって以来生まれたものではありません。

人類史上、歴史的経緯によって生まれたものではありませんし、また歴史的出来事の結果生まれたものでもありません。神話における出来事がそれを確定させたわけでもありません。

他者に対する共感や公平性についての感覚は、生物の進化の過程で芽生えたものです。

 

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貸し借りの感覚も貨幣が生まれるずっと以前から存在しています。貨幣以前の、また文字以前の媒介である粘土製トークンが生まれるよりずっと以前に存在している感覚です。

共感や公平性が私たちに直感的に感じられる場面のもっともよい環境は、恐らく一対一の関係性においてなのではないでしょうか。また三者以上の関係性が構築される中で、共感や公平性は、主観的なものであるものとは別に客観的なものとしても感覚されるような気がします。いずれにしても非常に限られた群れまたは家族的な集団によって広く観察されえるものだと思います。共感や公平性は単に学習から学ぶものというだけでなく、学習する以前に、先天的に共感を覚えたり、公平性を見出したりする機能が私たちには備わっているのだと思います。それは他の哺乳類などにも見られる傾向が強いようです。

小集団において非常によく機能するわけですが、これがより広く市民社会、国際社会とその集団の枠組みが広くなると、共感や公平性の意味合いが少しばかり違ってくると思います。

現実性のない他者、個体として認めるには十分な情報がない他者、何者とも言えない他者として概念として認識され、それでいて時折その個体としての姿をはっきりと現し、またすぐに現実性を失うであろう他者、そういった存在としての他者が、社会では問題となってきます。これは群れや家族的な集団における他者とは異なる存在ものだと思います。

共感や公平性の枠組み、スキーマは人それぞれに、またある程度の共通性のある形で、生成されていきます。ここでの共感や公平性は、群れの、また家族的な集団におけるそれとは違います。それでも私たちに本来的に備わっている共感や公平性を解釈する機制と共通するものを通じて解釈されているという側面があると思います。

しかし、市民社会ないし国際社会におけるフィードバックは小集団におけるフィードバックとは異なるリターンを返してきます。個体に本来備わっているであろうリターンの期待値は小集団のそれを前提としています。市民社会ないし国際社会におけるリターンは生物的なフィードバックとは少し異なる返し方をしてきます。

例えば、家族に何かすることと、社会に何かをすることとでは、はっきりとそのリターンが異なるわけです。単純にフィードバックが異なるので同じリターンが期待できないのは当然と言えば当然のことです。より複雑化し、より高度化する社会の様々なシステムは、その生成と同時にそれへの適合が要請されます。ヒトという生物としての本来的な適合環境とは実際にはっきりと異なるものだと思います。

適合環境の変化に伴い、人類の遺伝子的進化の適合能力は恐らく追いつくものではありません。社会における幾つかの問題の発生原因は、このヒトに本来的に備わっている適応能力と、その適応しなければならない環境との小さくない不一致からくるものが多いのではないかと思います。多くの場合、発達した文明社会、つまり現代の環境への適応は、適応する側に責任が求められます。本来的に適応が難しいものであるという認識ははっきりと認めるべきでしょう。

国際社会の新しいゲームはこういった環境もある程度前提としていると思います。先進諸国における人口減少は、このような理由で私は不可避的なものだと思います。従って、繁栄すれば衰退することが今のところ、ほぼ約束された要件なのだと思います。

様々なルール作りが要請する案件の一つが、環境への適合の要請です。実際にこれは不可避的な要素があると思います。しかし新しいルール作りに際して、どのようにヒトが新しい環境に適合することができるのかを考える必要があると思います。こちらの要素は実際に回避可能です。また新しい環境が生成されるに付随的に考察されなければならない問題なので、必ず後手に回ります。また実際によりよい適合の環境を生成する試みは必ずしも成功するとは限りません。

前者が自動的に生成されるのに対して、後者は頭を絞って考え出されなければならず、かつある程度のコンセンサスを生み出さなければならないが故に、ほとんど作り出すことができません。

これを自生的に生み出すという試みは極めて無理のある試みだと思いますが、これ以外に実際はすることがないような気がします。

自生的な秩序は、全体主義的な秩序よりも実際はよく機能することが多くあります。しかし同時に自生的な秩序によって破滅に向かうという可能性も大いにあるだろうという仮説は十分に立てられます。恐らくこれを全体主義的に新しい秩序を見出すことによっては解決されえるものでもないと見做す必要もあると思います。