日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】国際社会における発言権

国際社会に対して日本が貢献できることというのは非常に多いと思います。特に経済面や科学技術面での国際社会への貢献は目覚ましいものがあると思います。しかしながらそうであるにも関わらず、日本の国際社会における発言権は非常に小さなものであると思います。

これについて、日本が第二次世界大戦における敗戦国である点を考慮しなければならないという意見を耳にするが、私個人はこの点には合意できません。

日本国における発言権の弱さの核になっているのは、私は科学哲学と社会科学の橋渡しに貢献できていないためだと思っています。国際社会において幾つもの問題があるとします。この問題点に対して、批判に耐えうる目覚ましい思考のモデルを実際に作り上げることができていないというのが現状ではないかと思います。

言い換えますと、敗戦国であることが言い訳に使われているところがあるという点を指摘したいわけです。

日本は、科学技術や経営方法などについての目覚ましいプランを作り出す力があると私は思います。しかしながらより包括的な基盤をもって、社会についての考え方をその根底から問い直すという作業について、あまり労力がかけられていないものと思います。実際にこういった活動は直近の実利性が乏しく、既存の評価基準から評価を得られないという、ある種の逸脱した活動です。科学哲学と社会科学を包括的に検討することは小集団において、ほぼ全く経済的利益を生みません。市場経済から実利を得ることは極めて難しいでしょう。

特に日本においては、諸科学と哲学が切り離されています。科学が社会科学に、特に経済活動に寄与するのは科学技術と経営の方法論へと向かわせます。特に前者が占める比重が大きいものと思います。

日本の伝統や文化、科学技術に対する様々な国際社会の評価を私たちは目にすることができるでしょう。しかし、哲学の分野においてほぼ全く日本の名前が出てくることはありません。古代ギリシアから近代ヨーロッパ、また現代のアメリカにおける諸活動が哲学の基礎にはあると思います。ここで日本的なものの考え方や文化を強調しても、実際にそれがよいものであると感じられることはあるでしょうけれど、どうしても中核を構成するものにはならないでしょう。

日本は現在、長い停滞期からやや衰退の時期に入っている段階だと思います。私はこの衰退から抜け出すことは難しいと思っています。現状の何が問題で、何をする必要があるのかという点について、社会科学の諸分野から様々な認識や対策案が提出されていますが、実際には、それは包括的な認識や対策案というものからかけ離れていると思います。

これからも恐らく当面は日本が国際社会に対して発言権を持つことはないと思います。仮にこれから発言権を手にすることができるとしたならば、その根底に科学哲学と社会科学を包括的かつ筋道立てて理論を組み立てることがある程度一般的になった後のことになるものと私は考えます。そのためにも一面的に無駄であるような活動をしなければならないわけですから、恐らく方向転換を迫ることは極めて難しいものと推測します。