日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】多元的な解釈によって認識するということ

まとまっていませんが

 

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意見を述べるというのはほぼ決まって断定の形を取ると私は思っています。

断定に対する否定も、断定に対する推量も、それは同時に否定という断定、推量という断定の形を取ります。意見を述べるとは「定めること」と不可避的ではいられないような気がします。そもそも思考することそれ自体が、何かを固定的に定めなければ進まない、意味を為さないところがあるのだと思います。

思考によって道筋をたてるというのは、実際にニューロンのネットワークによって形成されていると思いますが、そのネットワークの実際の働きそのものに、実質的にはその考えていることの前提となる条件が必ずしも同時に認識されているわけではないと思います。

思考のネットワークは、実質的に言語のみによって構成されているわけではなく、言語は様々な特に視覚的な記憶の連結や説明のための補助的な役割の方が強いものだと私は思っています。思考のネットワークは、記憶のネットワークとなる構造、視覚的記憶の構造および、その補助的な要素となる文字および音声言語によって主に構成されていると私は思います。

記憶のネットワークというのは、ある程度直感的な反応を前提としているところがあります。ある刺激に対してある程度そこから連絡される情報、データ、感覚には限られた部分があると思います。それは過去の様々な経験からその連絡される情報やデータ、感覚と強い結びつきができているためです。

与えられる刺激にはある程度強い役割を示されるものがあるでしょう。

「それ」とか例えば「指で何かを指し示す」ということは、私たちはある意味で学習しています。「学習」というよりも「刷り込み」といってもいいかもしれません。

「それ」または指で何かを指し示す行為が、実際に何を指し示しているのかはともかくその行為からその行為の意味をはっきりと説明できないとしても、身体はしっかりと「それ」またはその指で指し示す行為に恐らく正確に反応することでしょう。

このような指標としての機能を要するサインとは別に、私たちが使用する言葉の殆ど全てはそれとは別に言語的な意味や定義と無関係ではないでしょう。

自然とか世界とか社会、あるいは自由や責任などの言葉には、意味内容が必要となってきます。私たちはこれらの言葉を使って意思の伝達を行うことは実際に可能ですが、厳密な意味、正確かつ、一切の違いのないものとして使うことは概ねほぼ不可能でしょう。私たちは意味は理解しているが、厳密に意味が確定していないものとして言葉を使用しなければならないに違いありません。それでも私たちはそれを断定的に表現することを避けられないわけです。――意味論的なアプローチ

私たちはある意味で言葉を多元的に解釈できるものであるという前提の上で用いなければなりません。

私は先ほど、思考に関して、その思考のネットワークとしての構造と視覚的記憶としての構造の2点を指摘しました。前者は厳密に想像しているそれではありませんが、後者は実際に想像しているもののうちの一つです。この2つの要素が思考を説明する上で私は重要になるものだと思います。この2つの要素から、個別的にその固有の性質を一つ一つ見出すことが、形而上学的な、あるいは記号論的な考察の一領域を形成するものだと思います。

特筆すべき性質のあるものとして、例えば、ある情報とある情報を単純に結ぶこと、ある情報を除外し別の情報を選ぶこと、ある情報を別のある情報を前提とすることなどを挙げることができると思います。

具体的な例を挙げれば、「リンゴとオレンジ」とか「リンゴではない」とか「机の上にあるリンゴ」など一つ一つの情報あるいは記憶との結びつきの役割の違いがあると思います。――統語論的なアプローチ

これらの思考はある意味で一つに経験に基づく要素と、先天的な人としての機能を前提として行われています。このような側面から私たちは直感的に規則性を見出しますが、個人的な経験や人としての機能から導き出された「規則性」「因果性」の妥当性は直感的なものであり、正しい結論であるとも科学的な結論ともいえないでしょう。しかし、実際にほとんど全ての私たちが導き出す結論は、何らかの意味でこのような作用をどこかで通じて導き出されていると見做してもいいと思います。

私たちはどのようにして思考しているかという探索はある程度可能であると思います。これとは別に思考されたものが妥当なものであることを示すための探索とは幾らか意味が異なってきます。この妥当性を測るという作業は、どのようにして思考しているのかという作業から導き出されて結論を前提としているところがあります。どのように思考しているのかという考察の結論はこの妥当性への解答に大きな意味を持っていると思います。

もしこのような考察が仮にほとんど行われていないとしたならば、この妥当性の評価そのものも実際には何も行われていないと見做してもいいのではないかと思います。恐らくこの考察がなされた暁には何らかの意味で妥当性の評価を諦めなければならないところがあると思います。