日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

心の所在地

言語化―概念化と対象の問題

 

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心の所在がどこにあるのかという問いについて、私は「脳」にあるという解答についてある程度納得する所があります。ただしあくまでも膨大にある考え方のなかの膨大な回答の内の有力な考え方の幾つかの解答という意味で納得すると言った方がいいかもしれません。納得するといっても、「心の所在が脳にある」という解答以外の全てに対して排他的な態度を取るつもりはありません。

 

私は時に「私の心はあなたにある」という命題にすら、小さくない妥当性があるとすら考えています。「私はあなたに心を奪われている」という表現は恐らくかなり広域に使われている表現であると思います。何かしら好意を寄せている相手に、普段は冷静であるにも関わらず心が乱されるということは実際に起こりうるでしょう。

 

「私とは私と私の環境である。」というスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの言葉に依拠しなくても、「私の心もまた、私の心と私を取り巻く世界によって構成されている。」という表現もまたある程度許される表現ではないかと思います。

 

心については心という対象が存在しているのではなく、様々なエージェントによって構成されているものを大雑把に総じて「心」と呼び、またその呼び方によってある程度意味が通じるため、日常的な使用では、「心」という概念の表現伝達に惑わされることはないかもしれませんが、これが哲学的に「心」を問い始めると、何やら多くの問題点が出てくるようです。これは恐らく古代に「心」に類する言葉が出来てからずっと私たちが囚われている問題であり、実際に「心」という対象は、他の幾つかの対象と比較して、指示が困難であるために生まれた問題でもあると思います。

 

ハンナ・アーレントアウグスティヌスへの共感と共に、意志とは何かを歴代の哲学者を引き合いに出しながら様々な議論を展開していますし、ギルバート・ライルも『心の概念』などでこの問題について論じています。実際にこれらの解答のどれが正解であるのかは、概ねその判定者(エージェント)に委ねられる問題であり、実際に論理的に正解があるのかどうかと言えば、私は不明だと思います。実際に現状としてどこかで何らかのトートロジーや矛盾を構成するというのが関の山ではないかと思います。ヴィトゲンシュタインの「語りえぬことについては沈黙しなければならない。」というのも何かしら「心」について語る場合には、重要な示唆のように思います。

 

何故、私たちは「心」というものについて問い続けるのでしょうか。私には正直解りません。とはいえ、私自身も問い続けているひとりなのではないかとも思いますが、恐らく衝動的に問わないわけにはいかない瞬間が多々あるくらいに思っています。答えが実際に存在しようとしまいと、問わざるを得ない瞬間があるわけです。問わざるをえない状況への借り物の解答として必要としているような気がします。

 

自分と向き合う時、または他者と向き合う時、ぐらつく心理を前にして、恐らく私は心とは何かとその少なからぬ法則性や経験を導き出そうとします。そこから考察した何らかの解答が必ずしも良いアイデアであるとはいえない場面も多々あるでしょう。そこで自己への理解、および他者への理解への問いへとまた引き返させるのだとも考えることができるかもしれません。

 

しかし、心への問いは、心にある何らかの偏見や固執について、何らかの示唆くらいは提供してくれるものではあると思います。その良し悪しまでは私には判定できません。判定できないにしても、判定材料があるのとないのとでは、見えている、あるいは感じている世界、パースペクティヴには小さくない違いはあると思います。

 

ソクラテスにならって「知らないということを知っている」と、私ははっきりと断言することすらできない立場にあります。「知らないということすら知らない」と自覚するのが正直限界です。そのような自覚を前にして、心に関する曖昧な判定、判断材料が示唆するものなど、大きな意味はないかもしれません。それでも場合によってはその場限りの判断材料といえども、全く無意味なものと断定することもまた私にはできない話です。