日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

全体と部分について

説明をするために二つの記号を用意する。

 H p

ある部分pに対して、その部分を別の部分と構成するある全体Hを想定する。

ある全体Hに対して、別の部分とその全体を構成する部分pを想定する。

Hを固定的なものとし、pをヴァリアブルなものに見立てる場合を想定する。

pを固定的なものとし、Hをヴァリアブルなものに見立てる場合を想定する。

H₁(p)

H(p₁)

私たちの想定において、Hもpもまた別の構成要素(仮にxとしよう)もヴァリアブルなものであるとする。

また全体Hが別の部分と共に構成する全体があると想定する。

また部分pに別の部分によって構成する部分があると想定する。

H₂(H、p₁、・・・)

p(p₁、p₂、・・・)

このような想定をした場合、私たちが全体といい、部分というものは相対的な関係性において全体であり、部分であると見做すことができるのではないか。

私たちが仮にある主張をしているとする。

これをAとしよう。

このAという主張を通すために私たちは説明が必要である。この説明をEとしよう。

この時、Eという説明を「アルゴリズム」と捉えた時、Aはその「リターン」と捉えることもできるだろう。

もし私が「貴方の説明はアルゴリズムとして不適当である」とした場合の反論にはどのようなものが想定できるだろうか。

方法はいくつかあるに違いない。

私のその批判に対して批判的説明を加えてくるかもしれない。

 私がアルゴリズムと見立てたことに対する批判

 私が批判したアルゴリズムの誤りに対する批判

いずれにせよ、アルゴリズムとは何かという問いは必要かもしれない。

アルゴリズムは、その基礎となる基盤を必要としている。アルゴリズムそのものが誤りであるという可能性はある。但し「認識上の」計算は、現実に応用されるべきものであり、現実そのものを意味するとは言えない。アルゴリズムの使用はそれを実際に利用するか否かという道具主義的側面があることを否定しがたい。

あるアルゴリズムが真であるという想定に対して、それが巧く働かないとする。


アルゴリズムは真であるが、別のある要素が邪魔をしているが故にその結果が得られない。」
「その要素を排除することによって、この計算は真であることが立証できるだろう。」

上記の説明は時に、「言い逃れ」と説明されるだろうが、当のその説明の使用者はそうは考えない場合が多いだろう。

 

「私が全体的なものとして見立てているもの、私が無自覚的に全体的なものとして扱っているもの、そういったものは私がそうさせているのである。私が部分的なものから全体像を浮かび上がらせようとする過程において発生した現象である。」

私がある部分的なものを全体を説明する上で見出したり、学習した上での知識を部分的なものとして全体を説明するために使用したりしている。これらが部分であるという想定によって、私はその部分を更に推し進めて考察することを忘れさせる。これは私が見出した全体像を保持するために私がそれを揺るがしたくないが故に発生した現象かもしれない。」

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これは部分と全体に関する考察の一環である。

ゲシュタルトという用語を聞くと、なんとなく心理学方面の用語のような印象をうける。実際は、ドイツ語の「形態」を指す言葉で、ドイツ語における「形態」の例示を含めてより確固として拡張された使用が、恐らく英語におけるそれ以外の用語よりも、より強固な意味が示されているのではないかと感じる。

ゲシュタルトという言葉を意図的に使用している例は苫米地英人にも見られる。

エルンスト・ユンガーはその著書『労働者』の中で、「部分の総和を超える全体としての形態(ゲシュタルト)」という表現を用いている。

「形態の中に常住するものは、”部分の総和を超える全体”、解剖学的時代には手の届かなかった全体である。」

私たちが何らかの「形態」を模索する時、その全体の部分について知らなければならないという願望に駆り立てられるものではないか。解剖学の発達も、実際はヒトという形態、人類という形態について、理解したいという願望が込められていたのではないかと思う。

実際に解剖学から得られる理解によっては、ヒトという形態、また人類という形態についての説明は、必ずしも十分なものにはならないに違いないのだろう。それでも私はこの点に関してユンガーほど解剖学的時代における目論見や願望について否定的にはならない。

解剖学的時代前後において、ヒトという形態、あるいは人類という形態の、人々の理解は幾程かの変化がもたらされたことだろう。私たちにとって「躍動する生命」、複雑で混沌とした理解しか得られない世界を「形態」として「描写」したり、「マッピング」することは今の時代であっても難しいことだろう。私たちにとって、「形態」はどこまで到達できたとしても「認識」のそれを超えることは恐らくないのであり、その意味では「現実」のものとして適正と見做すのは、判断基準の問題を前提としている。

「ひとりの人間は、彼を構成する原子、四肢、臓器と体液の総和を超え、夫婦は男と女を、家族は夫と妻と子供を超える。交友は二人の男を超え、また民族は人口調査の結果や政治的投票の合計によって表現されうるものを超える。」

このようなユンガーの表現は全体と部分を論じる上での単調な集合論的描写によって全体と部分の関係を認識する方法の不十分さを指摘する上で、有効な批判方法になりうるだろう。

ただし、ユンガーの指摘は尤もであると認識した上でも、ユンガー自身のモデルもまた十分なものではないとも言わなければならないだろう。私たちは「全体」と「部分」について考えるにあたり様々な「モデル」を構築することができる。私たちはその「モデル」に関して、「精度」を要求できるかもしれないが、私たちが要求する「精度」は、私たちに迫りくる日常的な毎日を前にしてはコストに見合うものになると保証するだけのものになるのかは甚だ疑問である。

私が指摘できるのは「認識」するに際しての「全体」と「部分」に関する「概観」に関する問題と、その方法論であり、決して「コスト」に見合う「精度」の高い「モデル」を提出する方法の模索には至らない。この点についてもあくまでも指摘し、認識する必要性があるものと考えている。