日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

試論のための企画

宗教と科学の狭間――錯綜する言語と論理

【資料】

 ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考

論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)

論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 ニーチェ『悦ばしき知識』

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

 

 

 旧約聖書 創世記

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

 

 

 ドーキンス『神は妄想である』

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 

 

 ファイヤアーベント『方法への挑戦』

方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム

方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム

 

 

 ポパー『推測と反駁』

推測と反駁-科学的知識の発展-〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

推測と反駁-科学的知識の発展-〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

ソーバー『進化論の射程』

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

  • 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松本俊吉,網谷祐一,森元良太
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2009/04
  • メディア: 単行本
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本筋においてはE・ソーバーよりもR・ドーキンスに合意できる。ソーバーに対してもそうだが、ドーキンスについても言語使用に関する考え方には合意しかねる。

 

ソーバーはトートロジー問題に言及しているが、私個人としてはヴィトゲンシュタインの方法論的問題提起への解答には至っていないのではないかと思う。

 

「神」という概念の解釈は、恐らくG・ライルが「神」については宗教的な問題を考慮して直接言及を避けたであろう問題、つまりライルが「心」に関して挑んだ問題と絡んでくると思う。正直この辺は生物学者が立ち入りがたい問題なのではないか。

 

ニーチェの言及した「神の死」を絡めると、どうにも糸口が見いだせなくなりそうだが、少なくとも、地球科学や生物学が示している、新種の「創世記」(創世記というのは実際に語弊があるので、表現を変えるべきだろう)は何かしら社会学を照らす視点を持っていると私は思う。

 

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 ドーキンスの『神は妄想である』に関する私の違和感は、恐らく私が日本人に属するためだと思う。もし、私が一神教の国に生まれていたとしたならば、それほどの違和感を覚えなかったのではないかと思う。

 

 多くの日本人にとっての「宗教」は、キリスト教圏における意味での「宗教」とは明らかに異なるだろう。異なるというのは捉え方にズレがあるという意味で、全く異質のものという意味ではない。

 

 例えば「儒教」や「仏教」は、「多神教」や「一神教」とは違う意味合いがあるし、また「神道」は「多神教」である。実際にドーキンスが主眼においてるのは「一神教」であり、仮にこれに何か加えるにしても「多神教」までであろう。ドーキンスは意図的に「儒教」と「仏教」を議論から外している。これは「宗教」というものの認識上の刺激の「強度」に基づくとも言えるかもしれないし、また「定義」に基づく問題とも言えそうである。

 

特にドーキンスが指摘している「宗教religion」とは、ユダヤ教キリスト教イスラム教を中心に据えた意味合いであり、日本に馴染み深い「宗教」はこれに洩れる。ドーキンスが苛立つつまらない問題は、実際に日本人の立場に立つならばそれほどつまらない問題にはならないと私は思う。それは生まれ育った環境、特に言語圏と文化圏の違いという問題から生じる。このことにドーキンスがつまらない問題と感じる事に対して批判することはそれほど彼の目的にとっては意味のないことである。

 

私は一つの小さくない問題を提起したいのだが、「儒教」と「仏教」には特に示されたおらず、ある種の「多神教」とユダヤ教由来の「一神教」において示されているもの、そして同時に「科学」において示されているものがあるとすれば、それはいわば「創世記」から空想されていた、人類史以前の世界だという点である。

 

「仏教」「神道」「儒教」の影響が強く、後に「西欧化」した私たちにとって、人類史以前への関心は、特に専門的に学んでいる人を除けばはっきりと言っても小さなものだろう。私たちが良し悪しは別として「世俗主義」に適合したのは、私はこういった背景もあるのではないかと思う。

 

私は一神教に対する率直な理解はドーキンスとほとんど同じ理解になる。ドーキンスに限らず殆ど多くの生物学者と同じ理解と言っていいだろう。創造説あるいはデザイン説を採用している生物学者を例外とするならばだが。

 

私は「宗教」という概念の扱い方に関してはドーキンスとは一致しない。これは先ほども言ったように言語圏、文化圏の違いから生じるものである。

 

私はキリスト教原理主義、あるいはイスラム教原理主義という呼び方に小さくない違和感を覚える。確かに原理を尊ぶ立場なのだろうが、厳密に尊んでいるのかどうか解らない。私はもっと単純に「キリスト教」や「イスラム教」、あるいは「ユダヤ教」を信仰しているという立場と、その経典に対する幼稚な解釈と生における幼稚な衝動が彼らを突き動かしているだけに過ぎないように思う。そもそもテロを決行する人々がキリストやムハマドに共感しているとしても、無意味な想定かもしれないが彼らの行動にキリストやムハマドが実際にその行動を見ていると仮定して共感するに決まっているという確信はどこからも生じ得ない。

 

このような観点に立つと確かにドーキンスは正しいと私は思う。ただ、「無神論者」の「道徳」に関する問題について哲学的に論じられているとまでは思えない。この点については私はある程度解答を出さなければならないと思う。

 

ドーキンスの指摘だが、キリスト教徒の理解の一部だろうが、とはいえ程度までは解らないが、「無神論者」と「神を信じないヒト」というのは一致しないらしいというのは興味深かった。しかし「無神論者」の意味は概ね「神を信じないヒト」ということになると思う。「無神論者」という用語には恐らく、「キリスト教徒」とは別の特別な何かに対して信仰しているかのような印象を与えているのではないかと感じる。例えば「悪魔崇拝」などのような意味合いが恐らく含まれているのではないかと思う。実際には「無神論者」と「悪魔崇拝」は全く一致しない。神と悪魔という構図が、恐らく「キリスト教徒」と「無神論者」という構図に影響を与えているのだろう。

 

ドーキンスにとっての主題は「神」についての問題である。いわゆる「創造主」についての問題である。ドーキンスは生物学者であるので、これ以上の議論は恐らくしない。私は宗教の問題は、特に日本人にもなじみのある宗教も含めた場合、「崇拝」あるいは「尊敬」、「畏怖」の問題として捉えられるべきものという側面を提示したい。繰り返すがこれはドーキンスの論じる主題ではない。しかし、実際はドーキンスであれ、この点に触れないのはおかしいとは思う。ここが一番ネックになっているのではないかと思う。

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この辺はイギリスの思想家エドマンド・バークの「イギリス国教会カトリック」解釈とその感情と絡められそうだ。

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偶像崇拝の内部矛盾」――私たちの認識すべてがもし偶像としたならば、私たちは何も崇拝できないことになる。『聖書』においても「偶像」のカテゴリーを免れ得るという保証は何ものによっても基礎づけられない。

崇拝も尊敬も可能性として常に葛藤にさらされうる。――このような前提に対して排他的な崇拝および尊敬に対して、私は合意しかねる。――信仰は慎ましやかであれ

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利他主義――利己主義という対立構図には違和感を覚える。利他主義がいいのか利己主義がいいのかなどどうでもいい。

私が生物学や地球科学に言及するのは生物、特に動物が自分以外の生き物、特に仲間が利するように衝動的に行動するということ(これについては幾つかの例を挙げれば十分だと思う)が40億年という長い年月をかけて進化し、今なお維持されているという単にそれだけの原理が、社会学において顧みられないことに対する警笛の意味も含んでいる。