日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】全体主義における評価関数

ここでは全体主義評価関数について考察していきたいと思います。

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私がここで批判するものを一括りに全体主義と言ってしまうのはもしかすると無理があるかもしれません。ただ、少なくとも批判対象は全体主義的な思考法に対してであるという点は変わりません。

ここでいう評価関数という用語については以前に書いた日記に示したように「評価の機能を果たすもの」くらいの意味合いで捉えて欲しいと思います。

全体主義全体主義的な思考法についての批判には様々な文献があります。たとえば、スイスの医師であり著述家マックス・ピカート『われわれ自身のなかのヒトラーがそうでしょうし、哲学者K・Rポパー『開かれた社会とその敵』などもあります。経済学者F・A・ハイエク『隷属への道』などもそうかもしれません。

 

われわれ自身のなかのヒトラー

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開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

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開かれた社会とその敵 第2部 予言の大潮

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隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

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 全体主義とはどのような思想を指していうのかを簡単に説明すると、一人ないしはわずかな人間の考え方が、その社会すべてのあり方を規定してしまうというものです。

具体的にいいますと、ナチスドイツにおける国家社会主義などがそうですし、マルクス主義なども全体主義と言っていいと思います。

これについてマックス・ピカート全体主義的な考え方は独裁者に限らず、一般の市民のなかにあっても蔓延っていることを洞察しています。

科学哲学のなかにはモデル・ディペント・リアリズム、モデルに依存した現実主義model-depent realismという考え方があるようですが、一般的に近代主義modernismも理性主義、合理主義rationalismも常に何らかのモデルを基盤に形成されています。

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イギリスの著述家であるG・K・チェスタトン『正統』のなかで、理性主義rationalismに対して狂気じみていると指摘しています。

 

正統とは何か

正統とは何か

 

 その一つの理由としてその基礎としているモデルが非常に精神症的に働いていると観察したためだと私は思います。

ピカートはナチズムにみられる考え方に連関の欠如を観察しています。ナチズムは当時のドイツにおいて熱狂的に迎えられますが、ヒトラーの理論は完全に一貫しているように私が感じるように、恐らく当時のドイツ国民にも完全なものに感じたかもしれません。

その一貫性には小さくない違和感がありますが、当時のドイツ国民もそうであったと思います。その完全で一貫した考えに対して、それを批判する考え方というものを実際に考察可能です。同じ程度の妥当性を持っているのかどうか、その判定は主観的なものになると思いますが、どうしても目の前にある強烈な一貫性のある刺激を覆すほどのものにはならないでしょう。

ピカートは恐らく、一貫した考え方に対する批判や違和感が、熱狂や強烈な刺激によって切り離されることを見抜いていたのだと思います。ピカートに限らずフランスの心理学者ギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』などもそのように捉えていると思います。

 

群衆心理 (講談社学術文庫)

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 繰り返しますが、これらの心理作用ははっきりとした全体主義者に限らず、つねに私たちに襲い掛かってくるものだと感じます。自分以外の全員が言っているかのような世論が、アレクシ・ド・トクヴィルの言葉を借りれば多数者の専制として大勢を占めてしまうわけです。

全体主義的な考え方を一つの評価関数として捉えるならば、何らかの傾向があることは明らかです。全体主義全体主義的な考え方に対して批判することを、評価関数の評価関数と考えることができるかもしれません。

全体主義を評価するための小さな枠組みとしての関数を幾つか思いつくままに考えるとして、それによって全体主義を評価することになります。全体主義がどのようなものであるかの評価としては次のようなものも考えられるでしょう。

一つに一般的にではありますが、非常に断定的で煽情的であるということが考えられます。また、本来多数の個性的な人々が生きている社会において類型type的に捉えて、個々tokenの考え方まで推測しないこともあげることができるでしょう。類型的に推測するというのは具体的に言えば、実際に生きている人々やその人々の考え方、その評価は実際には少数の人間では評価できないからです。

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私たちが様々な考え方を他者や社会に提示する以前に、その考えとはどういったものなのかという点を洞察している人々というのもたくさんいます。これはある意味で考えうる評価関数にたいして評価関数を構築しているかのような作業のように思います。先述したK・R・ポパーなどもそういった洞察を行った一人でしょうし、哲学者のC・S・パースL・ヴィトゲンシュタインP・K・ファイヤアーベントなどもそうでしょう。哲学者に限らず、心理学であれ、自然科学であれ、実際にはその評価関数に関連するある種のライブラリを提供しているとも考えることができるでしょう。

私たちが現実主義realismと考えている多くの理論は、どこまで行っても想像主義idealismではないと断定できるものでは恐らくないでしょう。

モデル・ディペント・リアリズムはどこまで行ってもモデルに頼り続けなければならず、そのことをまず前提とおいています。しかし局所的な探索から何かしら全幅的な探索の中に可能性を求めるとするならば、全体主義とは一線を画そうとする企てだと思います。

実際はコストもかかり、リスクもあるのかもしれませんが、はっきりとした全体主義がもたらすコストやリスクと比較すれば何かしら可能性を見出せそうな気がします。自由主義社会が、諸個人に対して様々な領域を探索しようとする活動を何らかの形で支援しているのは、このような理由があるからだと思います。とはいえ、自由主義社会そのものが完全に全体主義的な考え方から切り離されるわけでは恐らくないでしょう。