【試論】C・S・パースの記号論とその隣接諸科学
ここではC・S・パースの記号論について考察していきたいと思います。
アメリカの偉大な哲学者C・S・パースの記号論は非常に難解です。よくパースの記号論に関する解釈を目にしますが、日本に限って言えばその殆どがパースの文面に全面的に沿った記述になっていることに驚きます。アメリカ発祥のプラグマティズムは、W・ジェイムズやJ・デューイによって発展しましたが、パースは長い間あまり顧みられることはありませんでした。最近になり再評価された人物と言ってもいいかもしれません。そういう意味では仕方がないことかもしれません。
C・S・パースの記述の難解さをもって、その意味を理解できないことに悩んでいても仕方がないことなのではないかと私は解釈しています。
単純に文章からだけではパース本人が何を考えていたのかまで正確に判断することは絶対にできないと思います。また、仮に正確に解釈できたとしてもそれがどれほどの正確さを持ったものなのかも解りません。
パースの記号論もL・ヴィトゲンシュタインやP・ファイヤアーベントの主張には晒されなければならないでしょう。たとえば10個のクラスという分類法がありますが、この分類法によって更に付け加えて正確に他の記号を分類し、その分類のより解りやすい表現に私は出会ったことがありません。
あくまでもそこから発展させて考えるのは諸個人が行わなければならないことであり、パースの記号論に全面的に沿うことが科学的な正確さを担保するものでもないと思います。
パースはときに生理学などを切り離して記号論を展開しましたが、その方法が必ずしも成功していたようには思えません。記号論の最大の弱さは生理学的な前提の取り入れの不備という側面に私はあると思います。
しかしながら、記号論に見られる分類法はそれ以前の幾つかの記号の分類法よりも包括的である点は強調してもし過ぎではないと思います。
実践を重要視するプラグマティズムを提唱するパースは、その実践の基盤となる理性を極めて包括的に分析しています。また、21世紀に入ってもなお可謬論に基づく主張は極めて重要な意見として耳を傾けないわけにはいきません。
K・R・ポパーは演繹主義的な観点から帰納法を完全に否定しました。この帰納法批判について私は受け入れられる立場にあります。ただし、演繹法Deductionと帰納法Inductionそして仮説形成法Abductionを推論の立て方から解釈しようとしていたパースの視点に私はより共感を覚えます。演繹法であれ、帰納法であれ、仮説形成法であれ、可謬性は免れえないという点ではポパーの批判的合理主義を包括しているのではないかとすら私には思います。
恐らくパースの仮説形成法は再度生理学的な観点から点検する必要があると私は考えます。そうすることで生理学をはじめとする心理学的な観点も再度論理学的に整理しうるとさえ思います。
私がここで展開していることは最終的には倫理学的な問いと密接に関係していると思います。