日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】人間らしい人間

ここでは人間らしさについて考察していきたいと思います。

 

長い歴史の中で生まれた一つの概念、社会契約論には国家と市民の関係が表現されています。それは一つの仮想であり、巨大な幻想であるというのは一つの見方としては有効でしょう。

国家と市民の関係性が記述された古典的言明の多くは人間が最小単位の要素として図式化されています。論理式の作り方として、人々がピースのように扱われているわけです。

私は人間の描写を様々な角度から表現することを要請します。文学や歴史が担うような物語として、心理学や生物学が担うような生き物として、私はそのような描かれ方をする人間像を強く要請しないわけにはいきません。

国家が思い描く人と、実際に社会の人々によって想い描かれる実寸大の人には小さくない傾向性の違いがあります。

それは時に悩み、時に笑い、時に涙する人であり、全身に血が流れ、呼吸をし、遺伝子を持った、時に恋をし、時に子を産み、成長し、年を取り、やがて死んでいく人です。他の誰でもなく、たった一人、他の誰でもない人のことです。

国家が見つめる人というものは、基本的には最小単位としての存在です。苦しまず、悩まず、笑わず、涙も流さない人を恐らくは想定されてはいません。しかしながら、限りなくそういったものに近いものとして想定されていると見做してもそれほど遠くもないでしょう。

グラフにおける直線上にある一点、観念から想起される漠然としたぼやけた対象、類型として見出されたもの、それが国家においての人です。この国家的な視点から眺めた人というのは実際にそこにいるようで、そこにいないものなのです。彼らの姿を特定するものはどこにも存在しません。

人を実際にその目で見ることができるのは人以外にいません。国家ではなく、人がその目でみなければ人を見ることはできません。その耳で聴かなければその声を聞くことはできないですし、その手で触れなければその身体に触れることもできないのです。

人を最小単位の要素として見る傾向にあるのは、政治学に限らず、古典的なものと近代的なものとの別を問わずに経済学や経営学にもあると思います。それはある意味で貨幣と同じように見られているわけです。

私たちが人間らしさと感じるものはおそらく直感的な印象によるものでしょう。それは時に矛盾した、形容しがたい概念です。一体何が人間らしい状態なのかを定式化することは恐らく難しいでしょう。それでもある程度、形作ることはできるかもしれません。

人以外の動物としては不完全な動物であり、かつ想像によって描かれた人としても不完全な人であるというのが実際の人というものだと思います。この人という存在と向き合い、その生と向き合うことができるのは人という生き物だけです。それは国家でもなければ、人以外の動物でもないでしょう。

一つの要素として見出された人とは人ではありません。私たちが私たち自身の存在を思い描くとき、恐らく古典的な政治学に見られるような人間像をもって思い描くのは極めて不十分な方法です。それは実際に生における一己の人間によってはじめて見出されうるものです。高度に複雑化した現代社会において、その生のあり方を模索することは恐らくあらゆる時代のなかでも難解であるかもしれません。

私たち人類が築き上げた多くの社会理論の多くがやがて空中分解して、殆どが人間らしくない何かを生み出すための装置として機能したとしても恐らく驚くほどのものではないでしょう。