日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】詩人とは何か

物質主義、二元論一元論――詩人

 

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人体をすべて水だと仮定します。

そうすると、

(体重(w*1000g)×アボガドロ定数6.02*10²³mol⁻¹)÷水のモル質量18.0g/molが、人体における水分子のおおよその総数ということになります。

実際には人体はすべて水では構成されていませんので、人体における全ての分子の総数、また更に原子の総数は幾分これとは別の数字になってくると思います。

実際に人体を構成する原子または陽子、中性子の途方もない総数を弾き出すとして、その構成要素を理解し、そのメカニズムをそれなりに理解したとします。

陽子、中性子ベースで考えるならば、上記の式で、水のモル質量で割る式を代わりに1g/molにかえると大よその数が出てくると思います。大よそw*6.02*10²⁶個ですか。

しかし私たちはこの膨大な数のこの原子レベルでの物理的な現象を操作し、コントロールすることは不可能でしょう。恐らく、そういった方面から心を理解したとしても殆ど意味のないことかもしれません。

心の作用を考えるというのも最終的にはこの分子・原子レベルでの現象が下支えとなっている以上、心の作用を物理的に理解し、または操作するというのもそれほど変わらないことなのかもしれません。

従って直感を素直に受け取り、直感に対して忠実に生きた方がより理想的なのかもしれません。

そうは言っても直感が常に理想的な実践を生み出すとはいえないかもしれません。私たちの直感の多くは、実際には人体のメカニズム、人生における経験や記憶、またその時々の状況によって導かれます。実際に理想的な実践を生み出さないとしても、もしかするとそれほど重大なこととは言えないかもしれませんし、私たちが想定する理想こそが何かしら問題があるかもしれません。

 

生を理解するというのは、私は何かしら詩的な活動だと思っています。理解するというよりは解釈するといった方がより正確かもしれません。詩的な活動は恐らく似非科学に分類されるかもしれませんが、考え方によっては科学こそが詩の一つの表現形式と分類できるのではないかとすら思います。

 

古代から現代にいたるまで、実際に詩人、現代風に言えば作家や作詞家、芸術家などにはそれなりの栄誉が与えられてきたと思います。同時に少なからぬ嫌悪感を伴ってきたともいえるかもしれません。これは科学者や社会学者、哲学者についても同様の事がいえるでしょう。

 

あらゆる所で、時に大衆と呼ばれ、時に市民と呼ばれる詩人たちが、実際の生を通じて歌をうたっている。それは時に物々しい罵声に等しいものであったり、また時に一人の生を勇気づけるものかもしれません。

 

詩人の言葉は、単に言葉と言葉の羅列ではなく、言葉と対象、言葉と声、また身体的な触れ合いなどとも関係が深いものといえるでしょう。言葉を紡ぐという詩人のような作業を通じて、私たちは生を見つめ、生を実践しているという所があるかもしれません。

 

詩人は常に歓迎される存在とはいえないかもしれませんが、概ね闇のある所には必ず必要とされると私は思います。詩人の活動とは何かしら闇との絶え間ぬたたかいという側面があるかもしれません。ただし詩人の武器は、必ずしも剣や戦車などといった形を取らず、また時にペンですらないかもしれません。

 

詩人は、時に明るい街並みに影を落し、また時に暗い街並みに光を灯すことが求められているように思います。

 

私たちが様々な場所で、様々な場面で、言葉を発することを好むという点について、私は、人は本来的に詩人であるからではないかと思います。太古の昔から、人類が常に傍に置いておいた職分に私は詩人を見ています。

詩人であるということは、目標や目的である以前に、ずっと私たちの傍にあったことであり、光と影が絶えず巡っているヒトの生に何かしら常に根を降ろしているものとも考えられそうです。