日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【資料】70億のブラックボックス

ここでは実在の顕在性潜在性について考察していきたいと思います。

 

私たちが現実の民主制のつくりを考えて、政治的妥協の過程を見て嘆くとき、理論的にすら魔法の解決法はないのだ、ということを頭の片隅に入れておくことは無駄ではないでしょう――I・ギルボア『合理的選択』

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合理的選択

合理的選択

 

 

ここでは、人、組織、環境などを総じてシステムとして考えます。

システム - Wikipedia

ブラックボックス - Wikipedia

オープンシステム (システム理論) - Wikipedia

 

私たちは地球という惑星に住んでいますが、現時点での世界の総人口は70億人を超えていると言われています。日本に限定して言いますと、1億2000万人くらいの国民で構成されています。私の提示に従いますと、人というシステムが世界的に見ますと70億超、日本国内で見ますと1億2000万あると考えることができます。

 

組織や環境についてもシステムとして捉えて考えるとすると、例えば会社、学校、交友関係、政府組織などもシステムであると考えられます。これについて、国内にどのくらいのシステムが存在するのでしょうか。

これについてははっきりとした数字を挙げること自体に意味がないと考えていいでしょう。システムはその枠組みの捉え方によって、様々な捉え方ができると思います。たとえば国家というシステムがどのようなシステムなのかを考えてみた場合、様々な考え方ができます。

国民は国家に含まれるのかとか国土はどうかなど、その境界の引き方はその捉え方によって様々です。実際に、人が国家という概念を想定する場合そこまで厳密には考えていないはずです。もし厳密に考えているとすれば、何らかの議論の果てに行き着いた厳密さだと断定していいと思います。

境界 - Wikipedia

国家というシステムがどういったものかを決定するには定義することが必要です。恐らく、その定義が厳密に万民の共通認識として確定することはないでしょう。簡単に言えば複雑すぎるからです。あまりに複雑すぎる構造をもち、かつその外側と内側の境界がはっきりしないシステムを完全に定義することには様々な意味で無理があると思います。最終的には、漠然としたままの意味での国家、様々な方法で定義された国家の意味がそこに残ることになるでしょう。

 これは社会における何らかの体制についても言えると思います。たとえばAという体制があったとします。厳密な意味でのA体制というシステムは存在せず、認識上の漠然としたA体制が様々な人々に(語弊がありますが、諸システムによって)解釈されていると考えるといいと思います。

 

ここで幾つかの言語論的な問題に触れたいと思います。ここで例を一つあげましょう。

  • 日本人は真面目である。

このことが正しいかどうかを考えてみましょう。どのような答えが返ってくるかは人それぞれだと思いますが、幾つかの点について注意すべき点があると思います。次のような別の例を並行して考えてみてください。

ここでの山田太郎はその判定者にとっても知っている人だとします。私たちは「日本人は真面目である。」という文章と「日本人の山田太郎は真面目である。」という文章では違った推論を立てなければなりません。仮にその推論の中で、「日本人には真面目な人もいれば、真面目ではない人もいる。」という判定をしたとしましょう。この時また、「日本人」は判定者にとって極めて多数の人々が真面目なように感じたとします。また「日本人」以外の他の国の人と比較したとしましょう。

日本人が真面目であるかどうかを仮に何らかの形で答えるにせよ、様々な前提が推論上にあがってきます。様々な集合論的な前提があがる可能性は大いにあります。

集合論 - Wikipedia

ここで提示したいことは、「集合論的な前提があがる」ということです。私たちが様々な推測をするなかで、無意識的に集合論的な思考が生まれます。

私は何故「集合論的な前提があがる」のかについて、次のような推測をしています。

一つは視覚に関連するシステムによってベン図が導き出されるように、視覚的に境界が引かれるためであるという点です。

ベン図 - Wikipedia

二つに神経に関連するシステムによって電気回路のような現象がおこり、ブール演算に還元されるところがあるという点です。

論理演算 - Wikipedia

私たちが無意識的に使っている論理の道筋の立て方の多くは集合論に還元されるところがあります。

社会学に見られる議論の多くにはその道筋の立て方の良し悪しを別として「集合論」を前提としています。実際にこの集合論が正しいかどうかは議論の当事者にとってはあまり重要視されていません。また集合論に基づいて正しいかどうかも当事者にとってもあまり重要ではありません。

 

私がここで提示したいことは、社会科学に見られる正しいか正しくないかの是非は、主観において想い描かれたものに対して一致するかどうかという意味しかないものが多いという点です。

私が言いたいのは思い描くこと全般を否定しているわけではありません。賛否を問う前にその思い描いたものがどのようなものなのかを示す必要があるという意味です。その思い描いた構造体のなかでの判定が私たちのいう正しいか正しくないかということであり、またはそういった思い描いたものから漠然と直感的に導き出された結論であるということです。

決定理論 - Wikipedia

そもそも多くの言論において思い描いた構造体というものがそもそも存在するのかどうかは怪しい所もあります。

私たちにとってオープンなシステムというのはあるかもしれませんが、どこかで必ずブラックボックスに行き着きます。不可知的なものと絶えず出会い続けるというのはある種人間の宿命だと思います。

このブラックボックスとの出会いとどのように向き合うかというのが人間の生において興味深いものなのだと思います。