日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

名誉と恥辱および論理について

【コメント】

行動経済学」という概念が経済学に導入されていますが、実際に心理学と経済学の学際的な研究がどのように行われているのか私には正直解りません。少なくとも私が知る限りでの日本国民の意識はそれほど経済活動における「心の問題」には重点を置いていないような気がしてなりません。

 

「経済学」という「貨幣」あるいは「マネー」という象徴を扱った学問は、今でも「気分」や「感情」といったもの、人間の身体に関わる現象の多くに関心がまるでないかのようです。また近代経済学の影響が非常に強い近代政治学も同様に「心理」というものにはまるで無関心のようです。

 

「名誉」という概念は幾分私が表現したいことを伝えるには不適切な概念であるように感じられるかもしれないが、恐らくそれは私の表現力のなさに由来するものであると確信しています。

 

私たちが「私たち自身の価値を測る」ということ、またこれに関連して「貨幣という価値の尺度」と解釈されるものについて考察し、その一般的な解釈の問題点を浮き彫りにすることを試みたいと思います。

 

以下の文章は、一年以上前に書かれたものですが、着目したい点は「貨幣」以外の「価値」への問いを浮き彫りにすることで、「貨幣」の「価値」というものを再考するところにあります。出発点としても不出来なものですが、今後、少しづつ手を加えていきたいと考えています。

 

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2013年09月02日

 

如何なる人間であろうと、名誉、プライド、誇り、自尊心と無縁ではいられない。一つに人は「自己の価値」を測る動物であり、あらゆる意味での「自己の価値」を徹底的に挫かれた人間が、強い意欲をもって積極的に行動することはほぼ不能であり、場合によっては自らを悲観し、自らの命を絶つという行動に至らしめるだろう。

 

人は「自己の価値」を推し量る上で、外的な存在者、他者の評価を参考にし、またそれと同時に実存としての自分の評価の両者を総合していると見做してよいだろう。

 

また評価である以上は相対性が関わってくるが故に、自己の評価はその相対性、他の人々の自己の評価および他者の評価も無関係ではない。

 

私たちは生きている限りにおいて延々と「自己の価値」を評価し続け、その評価の良し悪しによって気分は晴れやかな状態、憂鬱な状態を概ね繰り返す。

 

私たちは時に、良い意味でも悪い意味でも、まるで以前とは別人のような状態にさえなりえる。

 

私はここで「自尊心を持て」などとは言わない。少なくとも、自尊心の存在ゆえに時に絶望的状態にさえ陥りかねないのが私たち人類の宿命なのではないかとさえ言いたいくらいである。しかしながらこの点についていえば、絶望を自覚することは必ずしも絶望的状態ではないのではないかという点は指摘するに値するのではないか。

 

その理由を挙げるならば、絶望を感じるためには自己の価値を自分に問いかけていないといけないからである。言い換えると自分の価値を問い続けていない限りにおいて人は絶望しないし、また自分の価値を問い続けているということ自体が一つの積極的な意志の現れであるように思えるからである。

 

しかしながら自己の価値を問い続けることは自己の価値を見出すことの十分な条件ではない。また自己の価値とは最終的には自分自身が作り出した尺度や自分自身が作り出した論理、自分自身が最終的に納得した尺度や論理の中でのみ測られるものであり、如何なる場合でもそれを超える絶対的な、完全な、なんの不備もない尺度などではない。

 

このような要素を加味するならば、私たちが自分自身の価値に対する小さくない不安は、絶えず付きまというるものであるとも見做して構わないのではないか。そういった意味で必ずしも私たちは名誉ある存在を約束されてもいないし、場合によってはそれらは仮初のものであるとさえいえるかもしれない。

 

また別の視点に立つならば私たちはそういった他者が作り出した仮初の尺度、仮初の論理によって絶えず評価されつづける存在でもある。ある種のステレオタイプの評価もこの一つかもしれない。私たちはこれらの論理がいかなる推論によって導き出されたのかということを考察しえるという意味で言えば、必ずしもそれらの評価に従う必要はないが、少なくともいえることは、人間の名誉、自尊心、プライドは絶えず論理と関わり続けるということであり、そうであるが故に私たちは論理とは何かということについても自覚的にか無自覚的にか問い続けることであろう。

 

私が論理について問い続けるのは、それが道徳的な、人間的な活動に直結すると思えるが故であり、論理に関するあるいは論理的な哲学的な考察が歴史的にみて道徳論と無縁ではなかったといった点を考慮にいれても、倫理的な、道徳的な問いと無縁ではないどころか、論理的問いなくして倫理的、道徳的問いもありえないと思えるからである。

 

だからといって私は決して所謂論理的であることを推奨しない。そもそも如何なる論理的考察も仮説体系であると考えるならば、それら一切が真理であるとも一切の誤謬を犯していないものであるともいえなく、それら一切が未来を正しく予知したものであることを立証することも不能であると考える。

 

私が最も尊重したい態度は、名誉や恥辱および論理に対する成熟した態度である。これらはおそらく伝統が教えるところのものであり、それは不完全に違いないが、自らが築き上げた論理を振りかざし、他人に押し付け、自らになんの不備もないと考える人々の意見や態度よりもずっと価値のあるものであろうと思えるのである。ただし必ずしも伝統的なものの一切がそういった態度を教えてくれるとも思えないが故に、伝統的なものの中へと私たちが積極的に立ち入り、それらを見聞きするという態度は必要ではなかろうかという指摘は加えたい。