日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

認識論的インストゥルメンタリズムについて

私たち人類は、例えば火を用いたり、石器を用いたり、あるいはや貨幣を用いたりなど、道具を用いて文明を進化させてきた。身近な具体例を挙げれば、ドライバー、ノコギリ、鉛筆、更にはより複雑な構造を持つ車、飛行機、家電、PCなどが様々なものを、私たちは道具と呼ぶ。

 

私たち現代人は道具に囲まれて生活している。このような道具を失うと仮定した場合、私たちはたちどころに生きることに途方に暮れてしまうような感じにさえなりうるように思える。

 

今挙げたような様々な道具とは少し意味合いが異なるかもしれないが、私たちは実際に認識上でも様々な思考上の道具を用いた上で、物事を認識し、考察している所がある。こういった問題について考える企てを総じて認識論的道具論と呼ぶことにしよう。

 

ここで問題となるのは先ほど挙げたようなドライバーや鉛筆などというものとは少し異なった性質があるものと見定めていきたいと思う。ある意味では共通する性格があるように思うが、それについてはここでは考察を見送ることにしよう。

 

一般的に言われるインストゥルメンタリズム(道具主義)がどういった立場であるのかという点に関する、その論理とそこから導き出される帰結についてはここでは問題にせず、そういった認識において投機的に認識上の道具を用いているかのような考え方を総じて、もし仮にインストゥルメンタリズムと呼ぶのであれば、科学も含めた一切の思考がインストゥルメンタリズムであるかのように思える。インストゥルメンタリズム批判さえもこの視点に立つならば、インストゥルメンタリズムであるかのように思えるだろう。

 

もう少しここではその点を整理する必要があるだろう。

 

自然科学におけるインストゥルメンタリズムについては一先ず置いておくとして、社会科学や心理学におけるこのような立場について論じるならば、私には多くの哲学者や記号論者、社会学者、政治学者、経済学者、心理学者も、実際扱われている対象を捉える時、奇異な道具を持ち出して思考していることを認識する必要があるのではないかと思える。

 

私たちは目の前の複雑な物的現象を目の前にして、グラフや座標のようなもの、分類法を用いて整理し、その枠組みの中で物的現象を説明する。アカデミックな説明ではなく、実際に市井の市民に至るまで、その複雑さや緻密さの違いこそあっても、大まかにはそういった道具を使っているという点では変わりはない。そしてそこには絶えず様々な矛盾やトートロジーが組み込まれているようである。

 

私たちはそういった道具を用いることによって、日々の様々な状況を前に、様々な選択の迷いの中で「決断」に踏み切っているかのように思える。

 

仮説

 

①認識上の道具は身体的で形態的なメカニズムあるいはシステムと呼べるようなものと結びついている。

 

②数学や科学などで使用される「演繹法」、科学などでも様々な形で論じられる「帰納法」、あるいは行動心理学で使用される「ヒューリスティックな仮説」、記号論などC・S・パースの影響を受けた「アブダクション」と呼ばれる推論方法は、私たちの身体的で形態的なメカニズムあるいはシステムの存在を前提としている。言い換えるならば、多細胞生物としてのメカニズムを備えたヒトにおいて認識は成り立っている。

 

③様々な言論および仮説は「有機体」としてのヒトを媒体を通じて様々な形で巡っている。このような情報伝達は、例えば私が貴方にリンゴを手渡す時のリンゴとは幾分異なった見方をしなければならない。

 

④情報伝達の価値論と市場に流通する所謂「商品」の価値論は必ずしも一致しない。私たちは特に情報伝達の価値論を精査する必要があるのではないか。