日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

連結と類似

かつて少しだけ言語学者ローマン・ヤコブソンの著作を読んだことがあるが、あまり深く意味を読み取れずに終わってしまったという苦い経験がある。機会があればまた読んでみたい。

言語学ヤコブソンがある二つの類型を示していたというのは初めて知ったが、このような類型を心理学者ではなく言語学者が提示していたというのは面白い。

一つは連結性障害というもの、事実と事実の繋ぎ合わせの吟味を怠り、何事も「隠喩」を志向するというものである。類似している何かを示すことによって表現を完結してしまうという方法だと見做していいと思う。

二つに類似性障害というもの、事実と事実の繋ぎ合わせを志向し、それと類似している現象について想像力が働かないというもので、「換喩」に向かう。事実を書き連ねるが、それと類似する現象からは何も見出せないという方法に終始してしまうと見ていいだろう。

自分の表現方法にも、この二つの類型のどちらかが当てはまりそうな気もしなくもないが、できるだけ、この二つのどちらかに傾かないように気をつけている。意識してずっとそうしている。

実際に極端に「隠喩」を志向するにせよ、極端に「換喩」を志向するにせよ、概ねその言説には一つの帰結が生まれてくると思う。それは、自分の言説が間違っているかもしれないという可能性についての示唆がほとんどできないという点だろう。

幾ら頭の中で考えても、隠喩であれ、換喩であれ、決定的な正しさを提示できるとは思えない。

「隠喩」を提示して冷笑するのも、「換喩」を提示して激昂するのも確かに気持ちは解らなくもない。しかしその冷笑的態度も激昂した態度も、それ自体として笑えるものかもしれないし、非難されるべきものかもしれないとは考えられないのだろうか。

種々の「換喩」的な解釈と「隠喩」的な解釈には、様々な食い違いやズレ、また二律背反や両面感情が伴いうるものではないか。そこには当然に、自らの解釈に対する「苛立ち」や「自嘲」が生まれて当然のように思える。そういった物事を「解釈」することの難しさが、同時に解釈する面白さを生み出すものなのではないだろうか。

蔑みと怒りが渦巻いている中で、確かにその蔑みも怒りも理解できないとは言わない。それでも何かしら思考する中から楽しみを見出したいものだ。