日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】思考のメソッドから捉える思想の分類法

 ここでは言葉の枠組みの問題について考察していきたいと思います。

www.youtube.com

 

世の中には自由主義社会主義、民主主義、保守主義進歩主義など様々な思想信条があります。世の中の大枠の秩序のあり方や、細かな約束事のあり方に至るまで様々な政策論を私たちはそれと同時に見ることができます。

自由を、社会を、民主主義を、国家を、地域を、革新を、などなど様々な理念が声高に叫ばれています。そして同時に自由主義社会主義、民主主義、保守主義進歩主義など、様々な思想信条の重要性を語り、また同時にその思想信条から様々な秩序のあり方や約束事のあり方などが議論されています。

自由主義社会主義、民主主義、保守主義進歩主義といっても、その政策論はそれぞれの枠組みにおいてさえ、様々であり、時に保守的自由主義、社会的自由主義国家社会主義社会民主主義自由民主主義、保守的革新など、もはや何が対立していて、何が対立していないのか解りません。

自由という思想信条で集まっても保守的か社会主義的かという枠組みが存在し、社会の秩序を重視するにしても国家社会主義社会民主主義では全く異なりますし、保守という考え方を重視しても、国家社会主義と保守的自由主義、社会的自由主義とでもまた全く考え方が異なります。

保守、リベラル、民主主義、マルクス主義など、様々なベースとなる思想信条の集まりによって人々が協力しようと試みたり、また団結したりと試みていますが、私が見る限りその協力や団結は必ずしも巧くいっているようには思えません。時には、団結するはずの人々が相手への激しい憎悪によって命が奪われるということも起るくらいです。

そもそも単純化された観念的な枠組みで協力や団結が可能なのかという疑問すら覚えます。そもそも同じような考え方の相手との協力や団結と思っているにも関わらず、実は殆どまったく考えの異なる相手と協力や団結をしようとしているかのように見えるわけです。

単純化された観念的な枠組みあるいはフレーズの下に集まるというのは、実際に非常に反応しやすいはずです。

「国のために協力しましょう」とか「自由を勝ち取りましょう」とか「平等な社会にしましょう」といったことは確かに解りやすく、少なくとも何らかの意味ではそれなりに重要な主張のように思われます。

しかし、どのような道筋を立てているのか、どのような枠組みで物事を考えているのか、どのような価値観に従っているのか、どのような理想を実際に求めているのか、どのような目的があるのか、どのような手段でそれを実現させるか、なぜそれが実現可能かなど細かい論点で突然に意見が分かれてしまいます。

というよりも実際は最初から一致などしていなかったわけです。ただ、そのフレーズや概念の印象と、幾つかの共通する考え方が同じだっただけで、それ以外は本来的に違ったわけです。

私が重要視するのは、フレーズや概念というある種の旗印を振るのも重要だと思いますし、それを探すことも重要なことだとも思いますが、それ以前に自らが何らかの思想の細かい考え方や思考のあり方を明らかにする必要があると思います。この最も重要な作業を省いているわけですから、対立が生まれたとしても当然のことだと思います。

実際に何も明らかにしないことは、同時に何も考えていないことをも引き寄せます。簡単に言えば流されやすい状態を脱することが難しくなると思います。

 

用例

例えば

⑴Aという人がSという行為をしたとします。

⑵別のBという人もそれと同じSという行為をしたとします。

⑶AはXという行為をしようとしています。

⑷BはYという行為をしようとしています。

⑸Sという行為は社会的に許されないという考え方と、許されるという考え方があったとします。

この時に、Xという行為がなされることに賛成意見を持っているCが、BがSという行為をした時に、それは社会的に許されないといい、別の機会にAがSという行為をした時には、それはある程度社会的に許容されると主張したとします。

 

私は実際にこういったケースを山のように見てきていますし、恐らく私も山のようにこのような馬鹿げた主張をしているはずです。しかしこういったことは実際に様々な憎悪を加速させているというのは間違いないでしょう。

 

こういった現象があるのではないかという仮説を提示することは、実際に思想信条にかかわる観念やフレーズの旗を振ったり、それを求めたりすることよりもより重要となる思考の方法論です。

 

思想信条の旗を振ったり、フレーズを吐いたりするのも悪くありません。しかし、こういった思考にかかわる論理的な問題を一切無視した場合、恐らく憎悪ばかりが生まれてくるのではないかと、私は思います。憎悪や嫌悪感を持つことは、ヒトであれば恐らく完全には避けられないでしょうし、そういった反応を示すことはある意味で普通のことです。とはいえ、何らかの形でそういった不必要な苛立ちが軽減されるとしたならば、比較的方法論としては良い方なのではないかと思います。

世の中をどのように考えるかはその思考のあり方の総数を組み合わせた数あります。

天文学的な方法論のあり方の可能性を前にして、あなたの考えが誰かの考えと完全に一致しているということはまずあり得ません。

私はあなたに対して、相手の考えを改めさせる必要性を主張しているわけではありません。当然に相手に合わせて妥協すべきだということでもありません。出来うる限り自分が考えていることを提示するという作業が必要なのではないかという提案をしているわけです。もしこの作業が実際に重要であるとしたならば、私たちは社会のあり方などを論じたり、社会に対して働きかけたりするためのスタートラインにすら立っていのるか怪しい所があるのではないかと指摘したいのです。

この点において、日本にあって弁護するに値する人はほとんどいません。