日常風景のなかで

日々の生活のなかで思ったことをつらつらと調べながら書きつづります

【試論】難解な論理を遊び楽しむ

ここでは論理との向き合い方について考察していきたいと思います。

 

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オランダの歴史学ヨハン・ホイジンガは人間という存在についてホモ・ルーデンス(遊ぶものとしての人)という概念を提出しました。

 

遊びには真面目ではないという印象を持つことがあると思いますが、実際は遊びそのものは極めて真剣に行われます。実際に真剣さの欠いた遊びは遊びとは言えないかもしれません。

正確さを求められるものから曖昧なものまで、私たちが遊んでいるとき、空間には制限が与えられ、時間に制限が与えられます。もちろん空間や時間に限らずルールなどもそうです。

「遊ぶものとしての人」と言いますが、実際に遊んでいるとき、私たちはその遊びに遊んでいるのか遊ばれているのか解らなくなってしまうような感覚を覚えるかもしれません。

一つに私たちのやろうとしていたことがうまく行かなかったり、行動がうまく運ばなかったりするために自分以外の何かに遊ばれているような感覚を覚えるのかもしれません。遊びは私たちの自由な意志がつまづく瞬間を私たちに見せつけます。

また遊びにおける重要な要素は運に任されているような感覚を味わう点にあると思います。たとえば、初めからはっきりと勝ちが決まっている状況、また負けが決まっている状況を遊びといえるかと言えば、いえないところがあるかもしれません。勝つか負けるか解らない所が少しでも残っていればこそ私たちは遊んでいられます。

「結果は神のみぞ知る」というと語弊があるかもしれませんが、結果は場合によってはある程度予想はできても誰にも解らないものです。

 

さて、私たちが様々な出来事や事柄について議論する時、自分の考えに共感してもらえなかったり、強く批判されたりすることがあります。このとき、多くのケースでその反対意見に合意できない場合があるのではないでしょうか。この原因については幾つも考えられそうです。

 

大雑把に幾つか考えてみましょう。

 

⑴私たちが本来向きあうべきなのは論理そのものではなく現実である。 

⑵論理には論理の法則性があり、現実には現実の法則性がある。

⑶現実についての法則性は経験則によって見出される。

⑷現実についての見出された法則性はその基盤となる別の法則性に従っている。

⑸この基盤となる法則性を基礎づけるのは例外を見出せないことに基づく。

 

⑴論理的な会話をするということは遊びと切り離せない。

⑵私たちが血の通った肉体を有する限り、必ず遊んでいるか遊ばれている。

肉体論理の関係性は様々な角度から論じられるべきだと思います。