【試論】自生性と設計性
言語活動の基盤
ある行為が自生的な行動であるのかあるいは設計的な行動であるのか、これを判別するのは、常に個人的な判断に委ねられます。政治学あるいは経済学などでちらほら見られる概念整理、スキーマの整理は基本的にはブール演算的な論理が必ずといってよいほどに使用されています。簡単に言えば真か偽かという判断方法です。
つまり何らかの意味で二値的に物事を扱う論理です。この二値的に物事を考えるというのは恐らく人である限り避けられず、この二値的に判断するという行為は、思考する人が簡単に言うと回路のような構造をもって思考しているためであるからです。生理学的な条件のもと、これとは別の思考方法もあると思いますが、二値的に判断するというのは極々自然な判断です。ただし、わたしはこれを絶対的に正しいことを証明するための道具にはならないと見做します。また、人生における実践においてそれなりに役立つ可能性があるとも見做します。
一度話を整理します。
①二値的に判断するという行為は自然なことである。
また多くの判断はこの二値的に分類する方法を基盤としている。
②二値的に判断するということは絶対的な正しさを証明する道具にはならない。
③二値的に判断するという行為は実践において役立つ可能性がある。
これらの方法論を私は基本的に思考の基盤に置いています。従って、二値的に判断するという行為を目の当たりにして、これ以外の思考方法と出会った時、それはほとんど全ての言論的な出会いに当てはまりますが、同じ結論を導き出す事ができません。
さて、ここで具体的な例と並行して考えたいと思います。物事を計画的に推し進める行為を仮に設計的な行為と呼ぶことにします。これに対して、物事が自生的に変化していくような秩序を自生的な秩序と呼ぶことにします。
これについて二値的に考察する方法はこうです。
自生的な秩序と計画的な行為は共になりたつ。
自生的な秩序というものはなりたつが、計画的な行為というものはなりたたない。
自生的な秩序というものはなりたたないが、計画的な行為というものはなりたつ。
自生的な秩序も計画的な行為も共になりたたない。
これがブール演算的な方法の一つで、これを真か偽かを証明するためには別の記述が必要となります。ただし、その別の記述が真か偽かを証明する必要性が常に残ります。
話を整理します。
①上記の四つの分類(二値の二つの組み合わせ)を判断するために、その条件を提示しなければならない。
概念の数(例えばA個とします)に従って、2のA乗の選択肢が細分化されます。
②遡及作業――この条件提示は条件提示としての機能から提出されており、証明されたものという証は付与されていない。これを証明するためには別の条件提示をもって判断しなければならない。繰り返しますが、これも条件提示としての機能から提出されたものであり、証明されたものという証が付与されているわけではない。――これらの作業はやがてどこかで終息します。普通は初期段階で検討は終わります。
③重要な条件提示を判断する確かな方法は基本的には存在しない。存在するのは様々なデータから総合的に判断するという方法のみである。
自生的な秩序および設計主義という概念は、私たちの諸活動を明確に判別するための道具にはならないと思います。自生的な秩序とは、良くない判断は自然に衰退し、良い判断は自然に繁栄するという単純なモデルを前提としていると思いますが、実際に自然界での多くのモデルはこのモデルだけでは説明がつかないでしょう。
社会において少数者が社会のモデルを構築し、それを社会において利用しようという試みは概ね間違っていると私は思います。自由主義における自生的な秩序とはこれよりもベターな方法であるという判断であり、自生的な秩序は社会を進歩へと導くという判断だと思います。私はこれも誤りであると思います。
ただし、ベターなのかどうかは解りませんが、単純に比較するのであれば、諸個人が自分の近い環境での判断を奨励する側面がある自由主義に対して感覚的に擁護したい立場にはなります。それでも全く楽観視はできないという気分は残ります。
社会において道徳を取り戻したいという願望は、この点から発せられるのではないかと思いますが、私が思うにこの試みも成功しない可能性が高いものと思います。
そもそも社会において人々は既にそれなりに道徳的であり、道徳を取り戻そうとする行為そのものが場合によっては、設計主義に向かわせる可能性があります。少数の人間が急ごしらえで作った、実際には存在しない最大多数のための思考のモデル化の作業は、美辞麗句へと向かわせてしまう可能性があるからです。それとは別の考え方が、実際には個人にとって、よりよい考え方であったとしたならば、そこでその少数者に対して不信感が生まれるとしても不思議ではありません。
自生的であるということは必ずしも常によいものだと私は思いません。自生性の線引き、境界線は実際は曖昧です。あくまでも、少数の人々が社会のあらゆることを正しく判断できるという思い上がった結論に対する一種の強力なアンチテーゼと見做すべきものだと思います。
抽象言語の活用は時に重要ですが、過度に抽象化した思考空間は時に有害だと思います。そのためにもできるだけ、私たちが迫るべき対象とはなんであるのかという点をよりはっきりさせる必要があると思います。私が言いたいのは実際に生きている、抽象化して考えるべきではない、人々のことです。